神聖ローマ帝国
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オランダの歴史

古代
ローマ帝国 58-476
民族大移動時代
中世
フランク王国 481-950
神聖ローマ帝国 962-1648
  ブルゴーニュ公爵領 1384-1482
  ネーデルラント17州 1477-1556
  オーストリア領 1482-1581
ネーデルラント連邦共和国 1581-1795
近代
バタヴィア共和国 1795-1806
ホラント王国 1806-1810
フランス第一帝政 1810-1815
ネーデルラント連合王国 1815-1830
現代
ネーデルラント王国 1830-現在

神聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、ドイツ語: Heiliges Romisches Reich, ラテン語: Sacrum Romanum Imperium, 英語: Holy Roman Empire)は、かつて中央ヨーロッパに存在した、ローマ王(ドイツ王)たる神聖ローマ皇帝によって統轄された諸領域の呼称[1]で、現在のドイツオーストリアチェコイタリア北部・フランス東部を中心に存在していた多民族国家、もしくは国家連合である[2][3]

9世紀から10世紀に成立し、1806年まで存続していた。最初はまとまった統一国家であったが、14世紀から国家としての機能を徐々に停止し、統治下の非ドイツの領土も次々と失い、終いには国号に「ドイツ国民の」という前綴語が加えられた。さらに1648年ヴェストファーレン条約により神聖ローマ帝国は名目だけを残し、帝国内の300以上の王国公国帝国自由都市・教会領・侯領・伯領および他の小貴族の領地は事実上の独立を獲得し、ドイツ人の国家連合としての性格が明らかとなった。しかし皇帝の座を独占しつつ、オーストリア大公国を本拠地とするハプスブルク家のみは帝国と看做された。

1806年、フランス皇帝 ナポレオン1世によって神聖ローマ帝国は解体されライン同盟が成立。帝国の皇位はオーストリア帝国に移った。また、プロイセン王国支配下の領土は帝国から離脱し、それ以外の全ての小国はライン同盟の傘下に移入。帝国の滅亡後、勢力均衡の要領はウィーン体制に継承された。
概要

神聖ローマ帝国はローマ教皇に支持された皇帝を認めた中近世国家、あるいは地域であり、西暦800年カール大帝戴冠を始まりとし、継承により生まれた。当時の理念的には古代ローマ帝国と一体であり、またカトリック教会を含む概念でもあった。カトリック教会と教皇の守護者である神聖ローマ皇帝は最高権威を教皇と二分し、皇帝の権威は教会を通じて西欧全体に及んでいた。しかしその実権は封建制の下で制限され、皇帝を直接の君主とする地域は962年オットー1世戴冠をもってドイツとイタリア北部などに限定された。「神聖ローマ帝国」の名称はこうした分裂傾向が強まった1254年からのもので、それまでは単に「ローマ帝国」「帝国」と呼ばれていた。近世の神聖ローマ帝国は皇帝を君主とする地域に限定しても複数の民族から構成される国家連合に近いものとなり、末期にはフランス皇帝 ナポレオン1世によって北イタリアへの宗主権すら失い、実質的にドイツ諸侯の連邦となり果てていた。帝国の全体像を把握することは困難となり、フランスの哲学者 ヴォルテールは歴史哲学を論じた『諸国民の風俗と精神について』において、近世の神聖ローマ帝国を「神聖でなく、ローマでなく、帝国でない」と酷評した[4]

日本では通俗的に962年オットー1世の戴冠を神聖ローマ帝国の始まりと見なし、高等学校における世界史教育もこの見方を継承している[nb 1]。しかしドイツの歴史学界では西暦800年のカール大帝の戴冠を神聖ローマ帝国の始まりとするのが一般的である。

帝国史は3つの時期に区分される。すなわち、

フランク国王 カールの皇帝戴冠から中世盛期に至る「ローマ帝国」期(800年-10世紀)

オットー1世の戴冠からシュタウフェン朝の断絶に至る「帝国」期(962年-1254年

中世後期から1806年に至る「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」期

の3つである[5]

「ローマ帝国」期はギリシアのローマ皇帝(東ローマ皇帝)に対抗できる力を持ったカロリング朝フランク王国の国王カール1世が、西暦800年に「ローマ皇帝」に戴冠されたことで始まった。この時代の帝国は歴史学上の用語でカロリング帝国とも呼ばれる。領域は当時のカトリック世界ほぼ全域にわたり、古典古代・カトリック・ゲルマンの文化的融合が推進された(カロリング朝ルネサンス)。しかし843年ヴェルダン条約870年メルセン条約の結果、フランク王国は東フランク王国西フランク王国イタリア王国に分割された。その後も帝位はイタリアを舞台にして争われたが、924年に皇帝ベレンガル1世が暗殺されると帝国から皇帝はいなくなり、数十年に及ぶ皇帝空位時代が訪れた。

「帝国」期は962年に東フランク国王 オットー1世が皇帝となって帝位を復興したことで始まった。皇帝はイタリア王と東フランク国王を兼ねた君主で、1032年からはフランス南東部のブルグント国王も兼ねた。帝国の政治的中心は東フランク王国(後のドイツ)であり、11世紀以降の東フランク国王はローマ王を称した。ローマ王はゲルマン王国の伝統に基づいた選挙王制の形式で選出されていたが、ザクセン朝ザーリアー朝ホーエンシュタウフェン朝のいわゆる三王朝時代では事実上の世襲が行われた。そのため実際に選挙原理が働くのは王統が断絶した非常時だけだった[2][6]。ローマ王はローマで教皇から戴冠しなければ皇帝と名乗れず、そのためドイツ諸侯を率いてイタリア半島へ度々遠征した(イタリア政策)。皇帝は独立性の強い諸侯に対抗する手段として帝国内の教会を統治機構に組み込んでいた(帝国教会政策[7]。10世紀から11世紀にかけて皇帝権は教皇権に対して優勢であり、歴代皇帝は度々腐敗した教皇庁に介入した。だが教会改革運動が進展すると皇帝と教皇の対立が引き起こされた。11世紀後半から12世紀にかけての叙任権闘争で皇帝は敗北して神権を失い、教皇の権威が皇帝を上回った。この間に諸侯は特権を拡大して領邦支配を確立した。1254年にホーエンシュタウフェン朝が断絶すると20年近くも王権の影響力が空洞化する大空位時代となり、諸侯への分権化がより一層進んだ[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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