神田神保町
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三省堂書店もかつてはすずらん通り側(「けやき広場」側)が正面となっていた。

三省堂神保町本店

神田古書店街

2019年第29回神保町ブックフェスティバル 駿河台下交差点から神田すずらん通りを望む

2019年第60回東京名物神田古本まつり 神保町交差点会場の様子

飲食店街タンゴがかかる老舗喫茶店(2008年1月)

神田地区においては神田駅ほどではないが、飲食店も多い。2000年以降はカレー専門店が増え、カレー激戦区ともいわれる[5]。神田・神保町エリアには400店近くのカレー店が密集しており、毎年神田カレーのNo1を決める「神田カレーグランプリ」が開催されている。フランチャイズチェーンなどによる飲食店も増加しており、従来からの店を含め天麩羅類、洋食中華など、各種の飲食店が営業をしている。またラドリオミロンガなどの喫茶店が多いのも特徴で、「文豪が通った」とされる店もある。
奇数番地と偶数番地

神田神保町の現在の町域は、1934年1月1日の区画整理により誕生した。この区画整理は現在の靖国通りの拡幅工事と並行して行われ、神田神保町の地番の数字を新たに割り当てる際、靖国通りより南では奇数を、北では偶数を、靖国通り側から順に割り当てた。このような通りの両側での奇数・偶数の使い分けは、住居番号の付け方として日本以外では一般的なものである。

靖国通り沿いは現在でも住居表示が行われておらず、依然として上記の地番によって住所を表現している。このため、住所を見るだけで靖国通りの南北どちらに位置するのか、靖国通りからどれくらい離れているのかを直感的に把握できる。

住居表示の街区表示板と同機能のものを、町会が独自に設置している地区もある。

町名と番地が記載されている電柱広告

町会が設置した町名と番地の表示

偶数番地区であることを明記したものもある

多くは交差点に設置(画面左40番地、画面右42番地の表示)

歴史
地名の由来

神保町は江戸城(現在の皇居)の北側に位置し、江戸時代には武家屋敷が立ち並んでいた。「神保町」の名は、戦国大名越中神保氏の一族である旗本神保長治の屋敷があったことに由来する。屋敷前の道は「神保小路」と呼ばれていた[6][7]
明治以降1934年頃の神田神保町の古書店街(撮影:1934年2月、石川光陽

江戸東京府となった後の1872年(明治5年)、現在の神保町一丁目に「表神保町」「裏神保町」と「猿楽町」が、神保町二丁目に「北神保町」と「南神保町」が置かれた[8]。「裏神保町」は1922年(大正11年)に「通(とおり)神保町」へ改称された[7]

1913年(大正2年)、当時は小川町を広域地名としていたこの辺り一帯が、大火で焼失した。神田高等女学校(現:神田女学園中学校・高等学校)教員だった岩波茂雄が焼け跡に古書店を開き、同店内で夏目漱石の作品や『哲学叢書』の出版販売も行って大成功を収めた。これが岩波書店の起こり。

岩波の成功により教養人・大学生が神保町に足を運ぶようになったため、以後、一誠堂古書店、東京堂等の店舗新設が見られ、また読書の場を供すべくカフェを開業する者が相次いだ。

1921年(大正10年)、神田区駿河台に「文化学院」が開校。音楽・美術・舞踊など芸術関係書が、濃紺くるみの学術書やけばけばしい猥雑本とともに書店の軒先に彩りを添えるようになり、「ない本はない」と言われた。関東大震災後、復興事業として一大舗装道路「大正通り」(現:靖国通り)が完成すると、交差点名として「神保町」が登場、昭和後期には今日の様な景観を呈し始めた。

1934年(昭和9年)、震災後の復興に伴う土地区画整理事業により、「表神保町」「通神保町」および靖国通り北側の「表猿楽町」を併せて「神保町一丁目」とし、「南神保町」と「一ツ橋通町の一部」および靖国通り北側の「北神保町」ならびに「中猿楽町」を併せて「神保町二丁目」、今川小路一丁目?三丁目が神保町三丁目となる。

司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』によれば、太平洋戦争中、アメリカ軍が「神保町の古書が焼失することは、文化的に極めて大きな損失である」として、この一帯のみ空襲を避けたという。しかしこの説は都市伝説だともいわれており、確証は疑問である。

1987年バブル期の頃は、地価高騰の中で都心にもかかわらず地価に割安感があったため、神保町の各店舗が地上げ屋の格好のターゲットとなり、放火などの事件も発生した。しかし各店舗が一致団結してこれに抵抗したため、結果的に大多数の店舗がこの地に残ることになった。
世帯数と人口

2017年(平成29年)12月1日時点の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目世帯数人口
神田神保町一丁目897世帯1,480人
神田神保町二丁目759世帯1,133人
神田神保町三丁目354世帯592人
計2,010世帯3,205人

小・中学校の学区

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[9]。なお、千代田区の中学校では学校選択制度を導入しており、区内全域から選択することが可能[10]

丁目番地小学校中学校
神田神保町一丁目全域千代田区立お茶の水小学校千代田区立麹町中学校
千代田区立神田一橋中学校
神田神保町二丁目全域
神田神保町三丁目全域

再開発事業・ジェイシティ東京詳細は「ジェイシティ東京」を参照

神保町は周辺と同様、いくつもの道路により細かく分断された街区上に古くからの建物が密集しているため、防災性と「土地の高度利用」が課題として挙げられている。この課題への克服と、土地価格高騰による人口流出の傾向に歯止めをかけるため、千代田区は1990年に再開発基本計画を作成し、この地区を「住み続けられる街」のモデル地区にすることを具体化した。その後この計画は「神保町一丁目南部地区第一種市街地再開発事業」として1994年2月に都市計画決定され、2000年に権利変換を終えて工事が開始され幾つかの震災復興期の建物が失われた。

再開発事業の内容は、神田神保町一丁目の43番地から71番地の奇数番地と、33番地の計16街区2.5ヘクタールを区画整理により3街区に統合し、商業施設棟と居住棟を有する総延床面積14万2000平方メートルの複合施設を建設するというものである。この事業は2003年11月をもって完了した。総事業費はおよそ645億円で、そのうち約8パーセントは千代田区の補助金を利用した。事業主体は地権者およそ130人からなる神保町一丁目南部地区市街地再開発組合で、三井不動産が「プロジェクトマネジメント業務」(総合企画)を担当した。なお、地区の防災性を高めるため、周辺の白山通りの拡幅と広場の設置が同時に行われた。

この複合施設はジェイシティ東京と呼ばれ、再開発計画における北街区の現101番地(旧33番地)には神保町101ビルが、西街区の現103番地(旧49・51・53・55・69・71番地)には東京パークタワーが、東街区の現105番地(旧43?47・57?67の奇数番地)には神保町三井ビルディングが建設された[11]
神保町101ビル

延床面積:4,517平方メートル

地上:12階

地下:なし

高さ:50.60m

鉄骨造、コンクリート充填鋼管柱

文化産業信用組合など

東京パークタワー

延床面積:48,243平方メートル


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