神武天皇即位紀元
[Wikipedia|▼Menu]
制定

明治5年(1872年)、神武天皇即位を紀元とすることが「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ行フ附詔書」(改暦ノ布告、明治5年太政官布告第337号)[12][注 4]公布の6日後に「太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付十一月二十五日御祭典」(明治5年太政官布告第342号)[注 5]で布告された。

今般太陽暦御頒行 神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト被定候ニ付其旨ヲ被爲告候爲メ来ル廿五日御祭典被執行候事
但當日服者[注 6]参朝可憚事 ? 「太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付十一月二十五日御祭典」(明治五年太政官布告第三百四十二号)[13][注 7]

口語訳するに「このたび(天皇陛下が)太陽暦を頒布され、神武天皇の御即位を紀元と定められたので、その旨を告知されるため、来たる25日に記念式典が執り行われることになった(ので参内する資格のある者は出席すること)。ただし25日が喪中となるものは参内を遠慮すること」となる。文面からもわかるように神武天皇即位紀元がいつのことであるのかの具体的な数字は無く、単に神武天皇即位を紀元とするとのみ述べている。布告の主旨は、天皇臨席のもとで開かれる、改暦と神武天皇即位紀元の制定を記念する式典の開催を通知することであった。

公文書では、外務省外交史料館が所有する、明治5年(1872年11月外務省から各国公使領事へ通知した文書に「明治六年 神武紀元二千五百三十三年」と見える[14]
制定後

神武天皇即位紀元を制定した後、文書の日付の書き方をどのように統一するのか(年号を廃して紀元一本とするのか、年号と併用するのか、その場合にどちらを主とするか、など)という懸案事項が残った。政府は神武天皇即位紀元の制定から時を隔てず、明治6年(1873年1月9日左院に紀元と年号の問題を審議させたところ、左院の回答は
紀元が制定されたからには年号の使用は考えられない。年号の使用は公私ともにこれを禁止すべきだ。

正式の表記は「二千五百三十三年」のように、略式は「二五三三年」のように記す。

というものであった。政府があらためて年号と紀元の併用を方針として再度下問したところ「(年号と紀元の併用に)異議無し」との回答が得られた[11]

明治時代に政府は年号と皇紀の併用を前提として、国書・条約・証書から私用にいたるまでの使用例を細かく規定した。それによると最も正式な文書には皇紀と年号を併記することとし、略式、あるいは私的な文書には年号の単独使用、もしくは月日のみの記載を可とすることになった[11]
元年を西暦紀元前660年とする根拠と妥当性
元年を西暦紀元前660年とする根拠

『日本書紀』神武天皇元年正月朔の条に次のような記述がある。「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」

読み下し文:.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}辛酉年(かのととり)春正月(はるむつき)庚辰(かのえたつ)(ついたち)。天皇(すめらみこと)、橿原宮(かしはらのみや)に於いて即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳(ことし)を天皇元年(すめらみことはじめのとし)と爲す) ? 『日本書紀』卷第三 神日本磐余彦天皇

ここでの「辛酉年」は西暦紀元前660年にあたる。その理由は以下のとおりである。

『日本書紀』の紀年法は、誕生から東征開始まで神武天皇の年齢で記された45年間、干支で記された神武東征の7年間、元号を用いた時代(大化白雉朱鳥)以外はその時の天皇の即位からの年数で表している。また、天皇の死去の年の記載もあり、さらに歴代天皇の元年[注 8]を干支で表している[注 9]。『日本書紀』のこれらの記述から歴代天皇の即位年を遡って順次割り出してゆけば、神武天皇即位の年を同定できる。これを行って神武天皇の即位年を算定すると、西暦紀元前660年となる。

日本国外の歴史書では『宋史』日本国伝(『宋史』卷491 列傳第250 外國7日本國[15])に「彦瀲第四子號神武天皇 自築紫宮入居大和州橿原宮 即位元年甲寅 當周僖王時也」とあり、ここでは神武天皇の即位年は僖王の時代[注 10]甲寅紀元前667年)としている[注 11][注 12]。一方、三善清行革命勘文において神武天皇即位を辛酉の年とし[注 13]、これは僖王3年に当たると述べている[16]

明治維新後、前述のように神武天皇即位が紀元と定められ、上記の『日本書紀』の記述に基づいて紀元と元号との対応関係が規定され、公文書などに用いられることとなった。また、神武天皇が即位したとされる「辛酉年春正月庚辰朔」はグレゴリオ暦の紀元前660年2月11日に比定された[注 14]。これに基づいて政府は「年中祭日祝日休暇日ヲ定ム」(明治6年太政官布告第334号)[17]で2月11日を紀元節と定めた(詳細は「紀元節」を参照)。
年代の妥当性

しかしながら『日本書紀』の記述を素朴に信頼し、神武天皇の即位を西暦紀元前660年にあたる年とすることには江戸時代から批判がなされてきた。たとえば、藤貞幹は『衝口発』[注 15]で、神武天皇元年辛酉は恵王17年(西暦紀元前660年)の600年後としなければ三韓との年紀に符合しないことを述べた[18]

神武天皇の即位を西暦紀元前660年とすることを否定する根拠の一つに『古事記』や『日本書紀』において初期の天皇の在位年数が不自然に長く、年齢も非現実的な長寿とされていることが挙げられる。

考古学の分野では西暦紀元前660年は、伝統的な土器様式などに基づく編年によれば縄文時代晩期、平成15年(2003年)以降に国立歴史民俗博物館の研究グループなどが提示している放射性炭素年代測定に基づく編年によれば弥生時代前期にあたる[注 16]。弥生時代前期にはまだ古墳は一般的でない。

寺沢薫卑弥呼即位を3世紀初頭と見て「列島での権力中心地の移動という意味では、新生倭国の王都は結果的にイト国から東遷したという言い方もできるかもしれない」とし、東遷の史実性には限定的ながら理解を示すが、年代は大幅に修正している[19][注 17]

神武天皇の即位の年は辛酉年とされるが、中国で干支紀年法が確立したのが太初暦が採用された紀元前104年あたりとされる。それ以前には木星の鏡像である太歳天球における位置に基づく太歳紀年法が用いられており、11.862年である木星の公転周期から約86年にひとつずれる「超辰」が行われた。こうした中国での干支紀年法の成立の歴史を鑑みるに、紀元前660年相当の時代を干支紀年法で記載しているというのはオーパーツと言える。
辛酉革命説

なぜ『日本書紀』において神武天皇の即位の年が西暦紀元前660年にあたる年に設定されたのかについて、江戸時代から様々な説が唱えられてきた。その一つに、『日本書紀』の編纂者が紀年を立てるにあたって辛酉革命説[注 18]を採用し、これを基に神武天皇の即位の年を設定したのではないかと考える説がある[注 19](詳細は辛酉#辛酉の年を参照)。

辛酉の年は60年に一度必ずやってくるにもかかわらず、紀元前660年という紀年が選ばれた理由についても歴史学者は様々な仮説を立てている。明治の歴史家として名高い那珂通世は、古代史上で大変革の年であった推古天皇9年(601年)から1260年遡った辛酉の年を即位紀年としたと述べた。推古9年が大変革の年であったという理由として、その著『上世年紀考』で「皇朝政教革新ノ時ニシテ、聖徳太子大政ヲ取リ給ヒ、治メテ暦日ヲ用ヒ、冠位ヲ制シ憲法ヲ定メ」と述べている。1260年というのは60年を「1元」、21元(1260年)を1蔀(ほう)として、1蔀ごとに大いに天命が改まるという讖緯家の思想によるものである[20]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:73 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef