神武天皇即位紀元
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南北朝時代公卿北畠親房は、延元4年/暦応2年(1339年)の自著『神皇正統記』の崇神天皇の条で「神武元年辛酉ヨリ此己丑マデハ六百二十九年」と書いており、雄略天皇の条では、外宮の鎮座について「垂仁天皇ノ御代ニ、皇大神(天照大神)五十鈴ノ宮(皇大神宮)ニ遷ラシメ給シヨリ、四百八十四年ニナムナリケル。神武ノ始ヨリスデニ千百余年ニ成ヌルニヤ」と記している[7]

江戸時代になると、『大日本史』の編纂に参画した儒学者森尚謙は、元禄11年(1698年)に執筆した『二十四論』中の「日本、唐に優る八」の「一 皇祚」の項で、「恭しく惟ふに我が大日本は、天神七代地神五代、その嗣を神武天皇と稱し奉る。其の即位元年辛酉より今元禄十一年戊寅に至るまで二千三百五十八年。皇嗣承継、聖代の数一百十四代(後略)」と記し、神武天皇即位から元禄11年(1698年)まで2358年であることを述べた[8]

水戸学者の藤田東湖は、天保11年(1840年)が『日本書紀』が記す神武天皇即位の年から丁度2500年目にあたっていることから「鳳暦二千五百春 乾坤依旧韶光新」という漢詩を作った[9]。また、弘化4年(1847年)、藤田東湖は自著の『弘道館記述義』において、「正史の紀年は神武天皇辛酉元年に始まる。辛酉より今に至る迄、二千五百有余歳、神代を通じて之を算すれば、凡そ幾千万年なるをしらざるなり(原漢文)」と書き、神武天皇即位元年が歴史の紀年の始めであることを宣揚した[8]

幕末に入ると、津和野藩国学者・大国隆正は、安政2年(1855年)に著した『本学挙要』のなかで、西洋にキリスト紀元があることを指摘した上で、神武天皇の即位を元年とする「中興紀元」を提唱した[10]。当時は開国攘夷か、尊皇佐幕かで大きく揺れていた時代であって、神武天皇即位からの年数をかぞえる紀年法(紀元)は尊皇思想と結びついていた[11]
制定まで

慶応3年12月9日1868年1月3日)、王政復古の大号令が発せられ、新政府が樹立した。王政復古の大号令に「諸事神武創業ノ始ニ原ツキ」とあるように、新政府は「神武創業ノ始」に回帰することを標榜したが、この決定に与って力があったのは、「中興紀元」を提唱した大国隆正の門人の玉松操であった[5]。その後、一世一元の詔により明治改元と「一世一元の制」が実現したが、明治2年(1869年4月刑法官権判事津田真道集議院に対し「年号ヲ廃シ一元ヲ建ツ可キノ議」を建議した。津田は年号を使った年月日の表記は煩雑で分かりにくいのでこれを廃して紀元を採用すべきだとした。また、西洋のキリスト生誕紀元(西暦)やイスラームヒジュラ紀元ユダヤ教天地開闢紀元などいくつかの紀元を例に挙げ、日本も独自の紀元を設けて、以降はそれを使い続けるべきだとした。そしてその我が国独自の紀元として神武天皇即位を紀元とすべきだと主張した[11]
制定

明治5年(1872年)、神武天皇即位を紀元とすることが「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ行フ附詔書」(改暦ノ布告、明治5年太政官布告第337号)[12][注 4]公布の6日後に「太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付十一月二十五日御祭典」(明治5年太政官布告第342号)[注 5]で布告された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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