神戸空港
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路線別では、旅客数は神戸 - 東京便で 1,086,271人 と全国の発着便の中で第25位、座席利用率は神戸 - 東京便で 82.9% と全国の発着便の中で第16位であった[14]

また、2019年(暦年)の年間の発着回数は31,410回、国内線旅客数は3,363,237人を記録し暦年として過去最多を記録した[15][注 2]。また、搭乗率は 80.4% と前年に引き続き過去最高を記録するなど好調な伸びを示している[16]

開港当初の旅客数は、2006年度約274万人、2007年度は約297万人と、当初の需要予測の約93%を達成したが、その後は予測と乖離が広がった。これは需要予測の前提条件に「各航空会社が機材を段階的に大型化する」と想定されていた[17]ことに対し、実際は全国的に国内線の機材が年々小型化し多頻度運航が主流となったことが原因の1つとされている。さらに、2001年に発生したアメリカ同時多発テロ事件や景気悪化を受け、全国的に航空需要が低迷し始めた時期に開港したことや、2008年度にスカイマークの乗務員不足による大幅欠航、2009年度に神戸市内新型インフルエンザ流行、2010年度に日本航空事実上の倒産(5月に全面撤退[18])なども影響し、2007年度をピークに2010年度まで旅客数が減少傾向となった。2011年度には約250万人まで回復したものの、2012年3月には関西国際空港で格安航空会社が就航し、これまで神戸空港のスカイマーク便を利用していた乗客がピーチ便に流れ旅客数に大きく影響した[19]。一方で、2009年1月にスカイマークが神戸空港を「関西の拠点」と位置付け神戸空港発着の路線を大幅に増やす中期経営計画を発表、神戸空港の知名度上昇とともに、経営再建が順調に進む同社が後押しし旅客数が再び上昇傾向となった。

運営を引き継ぐ関西エアポート神戸は、2017年7月の運営事業者コンセッションの際、2022年度に300万人を目指す[20]としていたが、運営権売却直前の2017年には300万人を突破[21]した。ただし、既に当時の発着枠上限である60便(30往復)に達し規制緩和の声が強まっていた[22]ものの、一向に緩和されない状況であったため、規制緩和がされない限り旅客数の伸びしろは限られるとみて上方修正はしないとしていた[23]。しかし、想定以上の伸びを示すことから、2018年2月に発表した中期計画(2018-2022年度)で上方修正し、2018年度に313万人、2022年度に327万人の需要予測を発表した[24][25]。翌年、規制緩和が行われた影響で、2019年9月に再度さらに上方修正した需要予測を発表している[26]。上方修正前の予測である2022年度に327万人を大きく前倒し、2019年度には達成する見込みである。一方、2020年3月には規制緩和後の80便(40往復)が早くも埋まり[27]、増便にはさらなる規制緩和が求められている。

2020年は新型コロナウイルス感染拡大の影響により年間利用者数が前年に比べてマイナス52%の163万人と、過去最低水準まで落ち込んだ[28]が、2023年度からはコロナ前の水準以上にまで回復している。[29]

2023年には、これまでの最高であった2019年の336万人を上回る343万人の利用者数を記録した。
歴史
開港まで建設中の神戸空港
空港建設計画の発端

この地区の空港建設計画は1946年の「市復興基本計画要綱」に初めて登場する。具体的な神戸沖空港建設の計画は、1969年5月に当時の運輸省の関西新空港構想に始まっている。この構想では、関西新空港予定地は神戸沖の他にも、播磨灘淡路島泉州沖が想定されていたが、大都市圏からのアクセスの利便性により神戸沖が有力とみられていた。
建設への反対

一方、1972年当時は、大阪国際空港の騒音が裁判にもなり、また公害反対を強く主張する革新勢力に力があった時代でもあったことから、神戸市会は神戸沖空港反対決議を賛成多数で可決。翌1973年の市長選挙では空港問題が争点となり、当時の宮崎辰雄市長も神戸沖空港の反対を表明、空港推進派が推す砂田重民を退けて再選された。このような経緯もあり、翌年に出された答申は泉州沖を最適とした。宮崎市長の反対の背景には、高度経済成長と共に社会問題となっていた公害、環境問題に対する世論の関心の高まり、成田・伊丹を契機とする、反騒音・反公害運動の活発化を無視できなかったことにある。事実、1970年からの泉州各市と2度にわたる大阪府の泉州案反対決議、淡路島の各自治体による淡路案反対決議、伊丹市の大阪空港撤去都市宣言(1973年10月)など、この時期は空港そのものに対する反対がかなり強いものであった。泉州沖の答申が出た後でも、例えば1976年の泉州沖の観測塔設置について、「空港の建設を前提としたものではない」と府知事が国と約束するなど、なお根強い反対に配慮する必要があったほどである。このように大阪湾岸の自治体がこぞって反対をしている中で、神戸市は神戸沖に積極的と見られていただけに、神戸の反対は立地を審議する審議会に対する影響が大きく、この経緯が立地選定に決定的だった、とする意見は現在でも多い。しかし同時に、泉州は人口が比較的少なく開発余地が多いことから、当時の視点ではむしろ神戸沖以上の高い評価点を得ていた。
現神戸空港計画の始まり

このような反対の中での関西空港の建設は、第一次答申後5年もたった1980年にようやく第2次答申が出るなど長期にわたる。この間、1970年代後半から1980年代になり、空港に対する意識が変化し始め、大阪国際空港周辺では空港存続、神戸では神戸沖の再評価あるいは誘致、泉州では泉州沖促進という方向への政策転換が次第に目立つようになる。神戸においても、1982年、神戸市会が神戸空港の建設を求めて反対決議の転換書を採択、これを受けて宮崎市長自らが運輸省に「神戸沖空港試案」を提出した。泉州11市町でも反対決議が順次取り下げられ、さらには要望決議を採択するように転換してきた。国自身は泉州沖推進の立場を維持しつづけ、神戸沖案は不適格、審議会で解決済みとして再審議の可能性を否定した。しかし、神戸沖の必要性=泉州沖の問題を指摘する活動は、兵庫県、神戸市を中心として継続し、泉州沖への同意を渋る兵庫県が、関空実施案への同意表明を行ったのとあわせ、地方空港としての神戸空港の調査協力を運輸省から引き出した。ここが、現神戸空港計画のスタートラインとなる。
全会一致の推進議決


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