神戸港
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1858年安政5年)、日米修好通商条約(および日米修好通商条約を含む安政五カ国条約)により1863年1月1日(文久2年12月7日)に開港が定められたが朝廷の反対によりロンドン覚書によって5年後の1868年1月1日(慶応3年12月7日)、「兵庫津」より東にある「海軍操練所」があった辺りを事実上の「兵庫港」[5]として開港が実現した。兵庫(神戸)開港にいたる経緯については、両都両港開市開港延期問題文久遣欧使節兵庫開港要求事件神戸外国人居留地#兵庫開港柴田剛中も参照。
近代摂州神戸海岸繁栄図明治時代の神戸港

開港から2日後の1868年1月3日(慶応3年12月9日)に王政復古の大号令が発せられ、鳥羽・伏見の戦い後の1868年2月2日(慶応4年1月9日)には兵庫奉行の柴田剛中ら一行が海路江戸へ逃れた。神戸を兵庫だと言い張って来た江戸幕府が立ち去り、兵庫運上所は事実上閉鎖状態となったが、1868年2月12日(慶応4年1月19日)に新政府によって仮再開され、1868年2月27日(慶応4年2月5日)に神戸運上所と改称された。

兵庫奉行の遁走から2日後、1868年2月4日(慶応4年1月11日)に神戸事件が発生。神戸港は一時的に占領状態となり、新政府が対応に当たったが、新政府は神戸と兵庫を明確に区分しており[6]、対応に当たる役所を兵庫津の島上町や切戸町に設置したことが、のち兵庫鎮台→兵庫裁判所→兵庫県の県名につながる。神戸事件の対応に当たった新政府は、神戸村南東部における外国人居留地造成工事がまだ相当の工期を要する問題への対処として、1868年3月30日(慶応4年3月7日)、神戸・二ツ茶屋・走水・花隈・宇治野・中宮・北野・生田宮の8村におよぶ宇治川 - 生田川(旧河道。付け替えは3年後)間の山麓から海岸まで(造成中の居留地を除く)という広範囲を外国人雑居地に指定した。遅れに遅れた居留地造成工事は1868年8月14日(慶応4年6月26日)にようやく完工し、1868年9月10日(慶応4年7月24日)に永代借地権の第1回競売が行われた。

神戸港に8ヶ月遅れて開港した大阪港は、当時河港だったため使い勝手が悪く、大阪港は明治4年(1871年)を最後に外国船の入港がなくなった。大阪に拠点を置いていた外国人貿易商らの多くは、天然の良港であることに加えて、居留地外においても外国人の居住が可能な(実際には山麓部に集中した)神戸へ移転した。同年からの仲町部、1874年(明治7年)からの兵庫新市街の整備によって神戸 - 兵庫間が市街化され、兵庫港でも1872年(明治5年)に和田岬和田岬灯台が設置され、1875年(明治8年)に新川運河が開削されたが、兵庫港は不開港のままであった。1892年(明治25年)の勅令[7](神戸港の港域拡張)により、同年10月1日から神戸港の一部となった兵庫港にも外国船が入港できるようになった。

一方、国際港都となり人口が急増した神戸では、1890年(明治23年)にコレラが大流行して1000人余りの死者を出した。これを踏まえて、議会の紛糾や日清戦争による中断を経ながらも、1900年(明治33年)には国内で7番目となる近代水道が整備された[8]布引五本松堰堤からもたらされる清澄で硬度が低い水は、「赤道を越えても腐らない水」と世界中の船乗りから好評であった[9]

政府の富国強兵策による近代化で工業貿易と共に興り、しだいに大阪と共に阪神工業地帯を形成していく。日清戦争(明治27-28年)後には香港上海を凌ぐ東洋最大の港となって商社「鈴木商店」などに代表される海運業が隆盛、ロンドンニューヨークハンブルクと並ぶ世界四大海運市場として世界に名を知られるようになっていった。

1933年、第1回みなと祭りが開催。中突堤付近を打ち上げ場所として花火大会が行われた。戦前の花火大会は、1935年の第3回みなと祭りで幕を閉じるが、1948年の第16回みなと祭りで再開され、入港数の増加を理由に中断する1960年まで続いた。1971年には、第1回みなとこうべ海上花火大会が開催されている[10]

第二次世界大戦時は、イタリア極東艦隊やドイツ海軍などの、枢軸国仮装巡洋艦Uボートなどの活動拠点として横浜港とともに機能した。
戦後

第二次世界大戦での敗戦により、神戸港は連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) に接収された。朝鮮戦争では、アメリカ第1海兵師団の主力が1950年9月11日に神戸港で乗船し、4日後の仁川上陸作戦に加わった[11]

1951年昭和26年)、占領は解除となるが朝鮮戦争ベトナム戦争の影響から撤収は段階的なものとなり、最後までGHQに接収されていた新港第6突堤が返還されたのは1974年(昭和49年)のことである。返還の翌年、神戸市議会の全会一致により「核兵器積載艦艇の神戸港入港拒否に関する決議」を採択、寄港する外国軍の艦船に非核三原則に基づく「非核証明書」の提出を義務づけた。

アジア最大のマザーポート(ハブ港)としての地位は戦後も揺るがず、日本の高度成長期の発展を支えた。


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