2017年現在の神戸港における港勢は次の通りである。
入港隻数
総入港隻数 34,934(総トン数185,771)
外航船入港隻数 6,733(総トン数139,398)
フルコンテナ船 3,899隻、貨物船 1,099隻、液体タンカー 563隻、自動車専用船 400隻、客船 53隻ほか
内航船入港隻数 28,201(総トン数46,373)
貨物船 10,746隻、客船 8,155隻、フェリー 2,669隻ほか
取扱貨物量
外貨
輸出 2,407万トン(うちコンテナ個数 1,185,071 TEU)
主要輸出品:産業機械16%、染料・塗料・合成樹脂・その他化学工業品13%、完成自動車12%
主要輸出相手国:中国28%、アメリカ11%、シンガポール10%、台湾9%
輸入 2,865万トン(うちコンテナ個数 1,033,790 TEU)
主要輸入品:石炭12%、衣服・身廻品・履物6%、化学薬品6%
主要輸入相手国:中国30%、アメリカ19%、オーストラリア8%、インドネシア7%
内貨
移出:1,962万トン(うちコンテナ個数 309,497 TEU)移入:2,752万トン(うちコンテナ個数 395,821 TEU)
コンテナ取扱量は国の国際コンテナ戦略港湾政策などの後押しもあり、拡大を続けて2018年は過去最多となった[3]。しかしアジア勢、特に中国各港の急拡大で、1980年に世界4位であったコンテナ取扱量は2020年に67位と大きく順位を落としている[4]。 奈良時代に五泊の一つとして大輪田泊が整備される。これが記録に残っている上での神戸港の始まりである。 遣隋使・遣唐使の時代を経て平安時代末(12世紀)、平清盛によって「大輪田泊(おおわだのとまり)」(神戸市兵庫区)の修築が行われて人工島「経が島」が建設されて日宋貿易の拠点となる。その後、僧・重源による改修を経て鎌倉時代に国内で第一の港として「兵庫津(ひょうごのつ)」と呼ばれた。室町時代に、兵庫津は日明貿易の拠点として再び国際貿易港としての地位を得る。 江戸時代には、鎖国政策の下で兵庫津は西廻り航路の北前船や内海船の要港、朝鮮通信使の寄港地として栄えて1万人前後の人口を誇る。また、灘五郷として酒造りが活発になった所でもある。 1863年(文久3年)、江戸幕府の軍艦奉行であった勝海舟は海防のための幕臣の教育施設として「海軍操練所」の設立を、呉服商網屋吉兵衛が私財を投じて竣工させた「船たで場(ふなたでば)」を利用することを考え当時の将軍であった徳川家茂に建白した。翌1864年(元治元年)、明治維新に多大な功績を残した坂本龍馬が塾長を勤めた諸藩の志士のための「海軍塾」と共に開設されたが勝の更迭と同時に「神戸海軍操練所」と「神戸海軍塾 1858年(安政5年)、日米修好通商条約(および日米修好通商条約を含む安政五カ国条約)により1863年1月1日(文久2年12月7日)に開港が定められたが朝廷の反対によりロンドン覚書によって5年後の1868年1月1日(慶応3年12月7日)、「兵庫津」より東にある「海軍操練所」があった辺りを事実上の「兵庫港」[5]として開港が実現した。兵庫(神戸)開港にいたる経緯については、両都両港開市開港延期問題、文久遣欧使節、兵庫開港要求事件、神戸外国人居留地#兵庫開港、柴田剛中も参照。 開港から2日後の1868年1月3日(慶応3年12月9日)に王政復古の大号令が発せられ、鳥羽・伏見の戦い後の1868年2月2日(慶応4年1月9日)には兵庫奉行の柴田剛中ら一行が海路江戸へ逃れた。神戸を兵庫だと言い張って来た江戸幕府が立ち去り、兵庫運上所は事実上閉鎖状態となったが、1868年2月12日(慶応4年1月19日)に新政府によって仮再開され、1868年2月27日(慶応4年2月5日)に神戸運上所と改称された。 兵庫奉行の遁走から2日後、1868年2月4日(慶応4年1月11日)に神戸事件が発生。神戸港は一時的に占領状態となり、新政府が対応に当たったが、新政府は神戸と兵庫を明確に区分しており[6]、対応に当たる役所を兵庫津の島上町や切戸町に設置したことが、のち兵庫鎮台→兵庫裁判所→兵庫県の県名につながる。神戸事件の対応に当たった新政府は、神戸村南東部における外国人居留地造成工事がまだ相当の工期を要する問題への対処として、1868年3月30日(慶応4年3月7日)、神戸・二ツ茶屋・走水・花隈・宇治野・中宮・北野・生田宮の8村におよぶ宇治川 - 生田川(旧河道。付け替えは3年後)間の山麓から海岸まで(造成中の居留地を除く)という広範囲を外国人雑居地に指定した。遅れに遅れた居留地造成工事は1868年8月14日(慶応4年6月26日)にようやく完工し、1868年9月10日(慶応4年7月24日)に永代借地権の第1回競売が行われた。 神戸港に8ヶ月遅れて開港した大阪港は、当時河港だったため使い勝手が悪く、大阪港は明治4年(1871年)を最後に外国船の入港がなくなった。大阪に拠点を置いていた外国人貿易商らの多くは、天然の良港であることに加えて、居留地外においても外国人の居住が可能な(実際には山麓部に集中した)神戸へ移転した。同年からの仲町部、1874年(明治7年)からの兵庫新市街の整備によって神戸 - 兵庫間が市街化され、兵庫港でも1872年(明治5年)に和田岬に和田岬灯台が設置され、1875年(明治8年)に新川運河が開削されたが、兵庫港は不開港のままであった。1892年(明治25年)の勅令[7](神戸港の港域拡張)により、同年10月1日から神戸港の一部となった兵庫港にも外国船が入港できるようになった。 一方、国際港都となり人口が急増した神戸では、1890年(明治23年)にコレラが大流行して1000人余りの死者を出した。これを踏まえて、議会の紛糾や日清戦争による中断を経ながらも、1900年(明治33年)には国内で7番目となる近代水道が整備された[8]。
利用客数(乗降人員)
外航船:客船およびフェリー 10万8千人内航船:客船 95万3千人、フェリー 86万8千人
歴史
古代
中世
近世
近代摂州神戸海岸繁栄図明治時代の神戸港