神戸港に8ヶ月遅れて開港した大阪港は、当時河港だったため使い勝手が悪く、大阪港は明治4年(1871年)を最後に外国船の入港がなくなった。大阪に拠点を置いていた外国人貿易商らの多くは、天然の良港であることに加えて、居留地外においても外国人の居住が可能な(実際には山麓部に集中した)神戸へ移転した。同年からの仲町部、1874年(明治7年)からの兵庫新市街の整備によって神戸 - 兵庫間が市街化され、兵庫港でも1872年(明治5年)に和田岬に和田岬灯台が設置され、1875年(明治8年)に新川運河が開削されたが、兵庫港は不開港のままであった。1892年(明治25年)の勅令[7](神戸港の港域拡張)により、同年10月1日から神戸港の一部となった兵庫港にも外国船が入港できるようになった。
一方、国際港都となり人口が急増した神戸では、1890年(明治23年)にコレラが大流行して1000人余りの死者を出した。これを踏まえて、議会の紛糾や日清戦争による中断を経ながらも、1900年(明治33年)には国内で7番目となる近代水道が整備された[8]。布引五本松堰堤からもたらされる清澄で硬度が低い水は、「赤道を越えても腐らない水」と世界中の船乗りから好評であった[9]。
政府の富国強兵策による近代化で工業が貿易と共に興り、しだいに大阪と共に阪神工業地帯を形成していく。日清戦争(明治27-28年)後には香港・上海を凌ぐ東洋最大の港となって商社「鈴木商店」などに代表される海運業が隆盛、ロンドン・ニューヨーク・ハンブルクと並ぶ世界四大海運市場として世界に名を知られるようになっていった。
1933年、第1回みなと祭りが開催。中突堤付近を打ち上げ場所として花火大会が行われた。戦前の花火大会は、1935年の第3回みなと祭りで幕を閉じるが、1948年の第16回みなと祭りで再開され、入港数の増加を理由に中断する1960年まで続いた。1971年には、第1回みなとこうべ海上花火大会が開催されている[10]。
第二次世界大戦時は、イタリア極東艦隊やドイツ海軍などの、枢軸国の仮装巡洋艦やUボートなどの活動拠点として横浜港とともに機能した。 第二次世界大戦での敗戦により、神戸港は連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) に接収された。朝鮮戦争では、アメリカ第1海兵師団の主力が1950年9月11日に神戸港で乗船し、4日後の仁川上陸作戦に加わった[11]。 1951年(昭和26年)、占領は解除となるが朝鮮戦争やベトナム戦争の影響から撤収は段階的なものとなり、最後までGHQに接収されていた新港第6突堤が返還されたのは1974年(昭和49年)のことである。返還の翌年、神戸市議会の全会一致により「核兵器積載艦艇の神戸港入港拒否に関する決議」を採択、寄港する外国軍の艦船に非核三原則に基づく「非核証明書」の提出を義務づけた。 アジア最大のマザーポート(ハブ港
戦後
しかしながら、1980年代から1990年代にかけて香港・台湾・シンガポール・韓国などで港湾が強化されてくると、1976・1977年には48%に達していた神戸のコンテナ貨物に占めるトランシップの率が1982年から20%台にまで低下するなど、徐々に陰りが見え始めた[13]。 1995年(平成7年)1月17日には、阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)によって甚大な被害を受けるが、約2か月後の3月20日には、摩耶埠頭でコンテナの積み下ろしが再開される。2年後の1997年(平成9年)3月31日には全面復旧し、5月19日に神戸港復興宣言が出される。 しかし、東アジア諸港から集荷していたトランシップ貨物はアジア諸港へのシフトが進んでいる最中であり、これが震災によって拍車がかかることとなる[13]。
阪神淡路大震災