淡路島と本州および四国の海峡に橋を架ける構想は第二次世界大戦前から存在し、1914年(大正3年)に地元出身の政治家によって衆議院に架橋建設議案が提出されたこともあったが、当時の日本の架橋技術は未熟であったため、到底実現できるものではなかった[4]。
戦後になって、日本の高度経済成長の基盤ともなった国土総合開発の気運の高まりと地元の強力な要請に加え、架橋技術の進歩によって、このルートが具現化された[4]。当時の最先端の架橋技術が駆使され、1985年(昭和60年)に海上交通の難所であった鳴門海峡に大鳴門橋が開通。さらに13年後の1998年(平成10年)に世界最大の吊橋でもある明石海峡大橋が開通し、それまでに3時間以上かかった神戸 - 徳島間の交通所要時間が約半分の約1時間40分に短縮された[3]。本州と四国が淡路島経由で一本の道路で初めて結ばれたことにより、人々の移動や物資輸送はもとより、文化交流や観光、生活にも大きな役割を果たした[3]。
年表東浦IC北側に設置された東経135度(子午線)のモニュメント
(高速バス車内より撮影)
1970年(昭和45年)7月 : 本州四国連絡橋公団設立。
1976年(昭和51年)7月2日 : 大鳴門橋の起工式が行われる。
1978年(昭和53年)9月 : 淡路縦貫自動車道の起工式が行われる。
1985年(昭和60年)6月8日 : 津名一宮IC - 洲本ICと、大鳴門橋を含む西淡仮出入口 - 鳴門北ICが開通。
1986年(昭和61年)4月 : 明石海峡大橋の起工式が行われる。
1987年(昭和62年)
5月23日 : 鳴門北IC - 鳴門ICが開通。
8月10日 : 建設省より、「日本の道100選」に設定され、顕彰を受ける[5]。
10月8日 : 洲本IC - 西淡仮出入口が開通し、西淡仮出入口が廃止。
1995年(平成7年)1月17日 : 阪神・淡路大震災が発生し、地震の影響で明石海峡大橋の全長が1.1 m延びる。
1997年(平成9年)10月 : 津名一宮IC - 洲本ICの4車線化が完了。
1998年(平成10年)4月5日 : 明石海峡大橋を含む垂水JCT - 津名一宮ICが開通し、神戸淡路鳴門自動車道と山陽自動車道をつなぐ三木JCT - 垂水JCTも同時に開通し、全線開通。同時に全線の4車線化(垂水JCT - 淡路IC(明石海峡大橋を挟む区間)は6車線)が完了。