神戸市
[Wikipedia|▼Menu]
神戸市中央区にある諏訪山公園・ビーナスブリッジからの神戸市街地パノラマ全景

神戸市(こうべし)は、兵庫県の南東部に位置する兵庫県県庁所在地及び人口が最多の市で、政令指定都市である。市域は垂水区須磨区長田区兵庫区中央区灘区東灘区北区西区の9区から構成される。

2020年国勢調査によると、人口は152万5152人だった[1]大阪市京都市と共に、京阪神大都市圏(近畿大都市圏)における中心都市である。また、神戸市独自で神戸都市圏を形成している。大阪市から約30km程度しか離れておらず、大阪都市圏から連続する市街地(コナベーション)を有することから、阪神都市圏と称されることもある。
概要

の迫る東西に細長い市街地を持ち、十分な水深のある扇状の入り江部に発展した理想的な港湾である神戸港を有する日本を代表する港町港湾都市である。

大正から戦後の高度経済成長期にかけて、東京市横浜市名古屋市大阪市京都市と共に六大都市の一角であった[2]。幕末の開港以来、舶来品や西洋文化の流入する日本の玄関口となり、今なお旧居留地神戸外国人居留地)や北野異人館街などの西洋風の街並みにその歴史や影響を見ることができる。

1995年阪神・淡路大震災によって神戸港を含めて市内の経済機能は壊滅的被害を受けたものの、神戸市は今なお全国有数の経済都市としての地位を維持している。阪神工業地帯に属する港湾都市であり、貿易・造船・鉄鋼・機械・製造ゴム真珠加工・観光などの産業を中心に発展、ファッションパン洋菓子日本酒などの産業も盛んである。特に日本酒製造に関しては灘区東灘区から西宮市にかけての阪神本線沿線のエリアは灘五郷と呼ばれ、日本有数の酒所として有名である。観光地としては、中華街南京町神戸外国人居留地北野異人館街などの異国情緒な街並み、神戸ハーバーランド摩耶山掬星台からの夜景有馬温泉などが挙げられる。また、ユネスコデザイン都市に認定された。

「神戸」という地名は、現在の中心市街地である三宮元町周辺が古くから生田神社神封戸の集落(神戸「かむべ」)であったことに由来し、そのウ音便(かうべ。旧仮名遣いで「かう」は「コー」と発音)である。神戸三社(神戸三大神社)をはじめとする市内・国内にある神社の神事に使うお神酒の生産にも係わった。
沿革・詳細
古代

現在の神戸市域は、律令制では摂津国播磨国に属していた。現在の垂水区西区北区北神)の淡河町須磨区神戸総合運動公園・神戸流通業務団地の区域が播磨国で、発足時の市域を含むその他の区域が摂津国であった。

和田岬から北へ湊川(旧河道)のあたりにかけて「兵庫津」(ひょうごのつ)と呼ばれる港が広がり、大坂の外港・経由地として古くから栄えていた。遣隋使の時代には、すでに港は開かれていたが、平清盛により経が島の近くにである福原京が計画された前後に貿易の拠点として整備され大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれたことがその発展の始まりとされる。
中世・近世

兵庫津には戦国時代の短い期間、兵庫城が存在していたが、安土桃山時代豊臣氏の直轄地となり、兵庫陣屋と呼ばれるようになった。大坂の陣後に尼崎藩が立藩されると、西摂の政治の拠点は尼崎に移り、兵庫陣屋には同藩の兵庫津奉行所が置かれた。1769年上知によって、同じく尼崎藩領だった西宮とともに兵庫津は幕府直轄領となり、兵庫陣屋には大坂町奉行の兵庫勤番所が置かれた。港は北前船尾州廻船の中継地の一つで廻船問屋が軒を連ねていた。北西部には西国街道が通っており、西宮宿(現在の西宮市)と大蔵谷宿(同じ兵庫県の明石市)とを繋ぐ宿場があった。

兵庫津はまず市街地の地子方(じしかた)と市街地以外の地方(じかた)に分かれ、地子方はさらに宿場町の岡方と港町の北浜・南浜に分かれていた。北浜と南浜の境界はかつての経が島に由来する築島付近で、岡方・北浜・南浜の三方の自治組織が存在した。本陣は岡方に存在したが、諸藩の大名との関係が密接な有力商人たちが南浜に競って建てた「浜本陣」の利用が江戸時代中期以降は漸増した。
幕末・近代

江戸幕府欧米と締結した条約では兵庫港を外国船に開港することが規定されていたが、実際には宇治川を挟んで3q東に位置する神戸村が開港場となり1868年1月1日に開港。神戸村と二ツ茶屋村(ふたつちゃやむら)の沿岸部に神戸港が整備されたが、神戸村の南東端、生田川(旧河道)河口西岸の外国人居留地の造成工事は遅れ、2月に神戸事件が発生。これにより、3月には生田川(旧河道) - 宇治川間の山麓から海岸までが外国人雑居地となり、外国人居留地の造成工事は8月に完了、9月から競売が開始された。12月には神戸村が兵庫津寄りに位置する二ツ茶屋村・走水村(はしうどむら)と合併して神戸町となり、兵庫津と接するようになった。ただし両市街中心部は離れており、宇治川 - 湊川(旧河道)間の西国街道より山側は、坂本村の南部が「仲町部」と称して開発され、兵庫県庁舎(2代目庁舎)、福原遊廓(新福原)、湊川神社などが築かれた。1874年には東海道本線JR神戸線)の大阪駅 - 神戸駅間が開通し、西国街道より浜側の兵庫津相生町および兵庫津東川崎町に神戸駅が開業。同時に神戸町にも元町駅の位置に三ノ宮駅が開業した。

兵庫津の湊川以西においても、1874年に仲町部の多聞通を柳原惣門まで西伸させた新西国街道と兵庫津の旧市街との間が兵庫新市街として整備され、神戸町と兵庫津の市街が連続するようになった。一方、1875年新川運河を開削するも不開港の兵庫津(兵庫港)は神戸港に対して劣勢となり、1879年郡区町村編制法施行により市街としての兵庫津は神戸区に飲み込まれ、1892年勅令(神戸港の港域拡張)により港湾としての兵庫津(兵庫港)も神戸港に飲み込まる形で一体化した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:413 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef