神戸外国人居留地
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注釈^ 1867年1月10日(慶応2年12月5日)に江戸幕府第15代征夷大将軍に就任した徳川慶喜は2度にわたって兵庫開港の勅許を要請したがいずれも却下され、慶喜自身が参内して開催を要求した朝議を経てようやく勅許を得ることができた[13]
^ 『神戸市史 本編総説』には「外人嫌悪の思想、邦人に蔓延し居たりし当時」という記述が見られる[17]
^ なお、兵庫開港から間もない1868年2月4日(慶応4年1月11日)、西宮へ向けて西国街道を移動中であった備前藩兵が居留地にほど近い三宮神社前において隊列を横切った外国人(イギリス公使護衛隊員2名とフランス水兵2名)に向けて発砲し負傷させる事件(神戸事件)が発生している。この事件は明治政府にとって初の外交事件となった[19]
^ 当時の人口は兵庫津周辺が約2万人[17]、神戸村が約3600人[20]
^ 江戸幕府の兵庫奉行として居留地の造成に当たった柴田剛中は、六甲山地の北側に西国街道の迂回路を設けることを計画した。これは西国街道が居留地の北端と接していたため、街道において日本人と外国人との衝突が起こることを避けるためであった[24]。工事は大阪谷町代官の斎藤六蔵らが担当し、迂回路のルートは菟原郡石屋川と明石大蔵谷で西国街道から分岐し、その間を杣谷・摩耶山・東小部村・藍那村・白川村を経由して結ぶというものに決まった[25]。迂回路は開港までに完成したが、開港後に明治政府が居留地付近を迂回する道を新たに建設したことに伴い廃止された(一部は「徳川道」と呼ばれる登山道として存続)[26]
^ 競売は造成工事の進行に合わせて、1868年9月10日(慶応4年7月24日)から1873年(明治6年)2月7日にかけ4度にわたって行われた[37][38]。最低落札価格は土地1坪につき金2(2円)で、当時の居留地周辺の土地が1坪12銭5厘であったのに比べて高額であった[39]。実際には最低価格よりもさらに高額で落札されるケースもあり、例えばメインストリートであった京町筋に面する11番地は8円6銭でグラバー商会によって落札されている[39]。落札者を国別にみると、イギリスが全区画の半数を超える64区画を落札しており、以下ドイツ(23区画)、オランダ(15区画)、アメリカ(11区画)、フランス(11区画)、イタリア(1区画)となっている(残りの1区画は行事局(行司局とも表記、居留地自治における執行機関。後述。)が落札)[40][41]
^ 神戸外国人居留地での舞踏会に続き県会議事堂などでも舞踏会は開かれた。東京も同様であるがそれ以上に関西の名士たちは舞踏会に招待されたはいいが西洋式のダンスなど見たこともなくどのように踊ればいいのか戸惑い頭を抱え込んだ。神戸外国人居留地に住む外国人と関西の名士達を中心とする舞踏会は東京の鹿鳴館と同じく、関西における近代化の象徴でもあった[58]
^ 神戸国際委員会は太平洋戦争中に一時解散したが終戦後再結成され、関西国際委員会として関西在住の外国人のための活動を行っている[62]
^ 政府内では居留地内の永代借地権を土地所有権に切り替える案も浮上したが、従来通り外国人による土地の所有を認めるべきではないとする意見も出て折り合いがつかなかった[61]
^ もともと日本側は、領事裁判権の存在を理由に永代借地の上に建つ家屋には課税できないという方針をとっていたが、居留地返還によって領事裁判権が撤廃されたため、課税が可能になったと判断した[65]
^ 1983年(昭和58年)、旧居留地は神戸市都市景観条例に基づく「都市景観形成地域」に指定されている[78]
^ なお、居留地の自治権拡大を巡って1870年1月(明治2年11月/12月)に居留地の借地人が集会を開き、「大阪兵庫外国人居留地約定書」で認められた地税・警察税以外の課税権を獲得して居留地の運営費用を確保し、条例の制定・執行権を獲得して居留地内の違法建築や違法営業などの問題に対処するべきであるという内容の決議を行ったことがある。借地人たちは決議内容を書簡にして各国公使に送付したが、ほとんどの国の公使に黙殺され、唯一回答を行ったドイツ公使も課税権については新たな課税がなくともすでに整備されたインフラを維持するための費用は捻出でき、条例の制定・執行権については領事が有する領事裁判権と衝突する可能性があるとして決議に反対した。
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