居留地の具体的な設置場所は神戸村内の、東は(旧)生田川(後のフラワーロード)、西は鯉川(後の鯉川筋)、南は海と、三方を川と海で囲まれた(北は西国街道[† 5](後の花時計線)に接していた)[2][27]、広さ約7万8,000坪[3](約258,000平方メートル)の土地に決まった。『新修神戸市史』はこの選定について、「外国人と日本人との接触を極力回避しようとした幕府の配慮がうかがえる」としている[28]。
居留地の造成と運営神戸外国人居留地の地図(計画図。1870年(明治2年/3年)作成)
江戸幕府は柴田剛中を兵庫奉行に任命して居留地と港の造成にあたらせた。柴田は神戸村に着任すると直ちに造成の指揮を執ったが、開港日である1868年1月1日(慶応3年12月7日)までに完成したのは運上所(税関)の施設と3か所の埠頭、3棟の倉庫のみであった[29][30]。この時期は江戸幕府から明治政府への政権移行期に当たり、1867年11月9日(慶応3年10月14日)には大政奉還が行われた。
当初、兵庫開港に関する事務は引き続き江戸幕府が担当することとされた[31]が、開港から2日後の1月3日(慶応3年12月9日)に王政復古の大号令が発令され、同月27日(慶応4年1月3日)に起こった鳥羽・伏見の戦いで江戸幕府軍が敗れ徳川慶喜が大阪城から江戸へ退却すると柴田剛中も江戸へ引き上げ、工事は中断を余儀なくされた[32][33]。残る工事は明治政府の下で行われた[34][35]。
外国人による土地所有を認めない方針を採る明治政府は、居留地内の土地を永代借地(無期限の借地。事実上の所有)として外国人に貸与することとし[36]、被貸与者は競売[† 6]によって決定された[39][42]。永代借地権は居留地返還後も、1942年(昭和17年)まで存続した(後述)。競売代金の約半分は政府側が収納し、残りは自治行政を行うための最高議決機関[43]として政府が認めた居留地会議の運営費として積み立てられた[42]。居留地住民による自治行政は居留地が廃止されるまで続いた[44]。約30年にわたり居留地は円滑に運営され、日本側と外国側との関係も概ね良好であったと評価されている[5]。ただし日本人は居留地内での居住が禁止され[45]、立ち入りも制限された[46]。
なお居留地造成の遅れを受け、明治政府は区域を東は(旧)生田川、西は宇治川、南は居留地南の海岸、北は山辺(山麓)と限定した上で、外国人が居留地外に居住することを認めた[47][48]。この区域を雑居地といい、居留地返還まで存続した[49](詳細については後述)。 自然海岸に近かった神戸村の海岸に新しい港の建設が進められた[50][51]。1868年4月から7月(明治元年4月から5月)にかけて(旧)生田川・宇治川間の海岸に改めて4つの埠頭が建設され[52]、さらに1871年(明治4年)に防波護岸・埠頭拡張の工事が行われた[50]。
居留地および周辺の発展