神戸国際ギャング
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結髪:朋田多美枝

背景:宮内省吾

スチール:木村武司

演技事務:上田義一

衣裳:森譲

擬斗:上野隆三

進行主任:真沢洋士

製作
企画

主人公・団のモデルとなった菅谷政雄は、東映のプロデューサー・俊藤浩滋の幼なじみであった[1][2]。本作は「実録路線」がファンに飽きられてきたため[3]、東映がそれに代わる企画を模索中に製作された1本である[3]。『読売新聞夕刊1975年9月26日付けの記事で、俊藤は「型破りな"仁きょう映画をめざす」「全く新しいパターンの作品を狙った」などと話しており[4]、製作時の文献に本作を「実録映画」と紹介した記事は見つからない。最初の企画書に書かれたタイトルは『ギャング』だった[5]。東映も本作は「実録映画」ではなく「ギャング映画」と告知した[3][6][7]岡田茂東映社長は1975年8月27日にあった東映1975年下半期のアウトライン発表で、正式に本作の製作発表を行い、「落ちるとこまで落ちたが、あとは浮上あるのみ。私が陣頭指揮を執る」と話し[8][9]、この年の春から指示していたヤング路線を止め[8]、再び暴力路線を復活させると宣言した[8]。「実録」を銘打たれたものの、脚本家・松本功によれば「後半はほとんどウソっぱちの話になってしまった[1]」。

製作費2億5000万円[10]。宣伝費を除く純製作費約4億円[11]
監督選定

俊藤浩滋プロデューサーは、岡田茂東映社長が推進する「実録路線」と衝突し[2][4][5][12][13][14]、手掛けた映画も不振続きで[4][5]1974年の正月映画『ゴルゴ13』以降干されて[5][14]、東映参与からこの年2月に岡田に一介の契約プロデューサーに降格させられ第一線を退いていた[4][5][12][13]。俊藤が陣頭指揮を執るのは2年ぶりのこと[3]。俊藤としては背水の陣で取り組む大作で[5][14]、再起を賭けたものとなり[4][12][13]、「新しいアクション映画にしたい」と、田中登の招聘を岡田に訴えた[4]。俊藤としても子飼いの監督を差し置き、外部から監督を招聘するのは大きな冒険で[4]、『?色情めす市場』『実録阿部定』など、日活ロマンポルノの田中作品を「すごい切れ味」と惚れ込んでの招聘だった[2][4][10][15]。岡田もこれに賛同した[4]。岡田は東映東京撮影所の所長時代に、鶴田浩二と高倉健を押し立てて「ギャング路線」を敷いたことがあり[16][17]、ギャング映画が好きだったとされ[18]、その後も時折、ギャング映画を作っていた[17][19]。田中監督は「指名されて嬉しい。命懸けで撮ります」と決意を述べた[10]。田中にとって、他社作品かつ一般映画として最初の作品である。東映から誘われたことを日活撮影所所長・吉川斌に伝えると「君をしばらくホスが、あちらで頑張ってくれ」と言った[11]日活ロマンポルノは700万円ぐらいの予算[11]。田中は2000万円以上の製作費の映画を撮ったことはなく[10]、本作はそれらより10倍以上の製作費を投じる大作となる[10]。日活はロマンポルノ体制に移行して以降も、月給の遅配が続き、田中も助監督時代の月給7万5000円を監督昇格後も据え置かれていた[11]。田中は現場の昼休みに配られる豪華なロケ弁に目を見張り、ひそかに東京の自宅に送った[11]。また俊藤や高倉、菅原も現場でファンに貰うプレゼントを田中に渡した[11]
キャスティング&撮影

俊藤としても捲土重来を期す作品で[4][5][14][20]ヒロインを新人選考会で選ぼうとしたが[21]、期待した女性が集まらず[21]、何とか女優引退した娘・藤純子を担ぎ出そうとし[4][14][20][21][22]、藤の女優としてカムバックなるかが注目された[4][5][20][22][23][24]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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