神奈川県
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明治4年7月14日1871年8月29日)の廃藩置県の後、同年11月14日12月25日)に関東地方の府県が統合・再編され、神奈川県の管轄区域は武蔵国のうち久良岐郡橘樹郡都筑郡および相模国のうち三浦郡鎌倉郡とされた[30]。また、相模国のうち境川以西の高座郡大住郡淘綾郡愛甲郡津久井郡足柄上郡足柄下郡の区域は伊豆国全域とともに小田原に県庁を置く足柄県に属するものとされた。これに対して神奈川県は、高座郡および武蔵国多摩郡が外国人遊歩区域に含まれることから従前の通り神奈川県の管轄とするべきであるとの上申書を政府に提出し、これを受けて当初は東京府及び入間県に分割された多摩郡の全域と、足柄県に属することになった高座郡とが改めて神奈川県の所属とした。この結果、多摩地域が神奈川県の管轄となり、相模川が足柄県との県境となった。なお、多摩郡のうち東京の市街地に近接する中野村ほか31村(後の東多摩郡。現在の中野区・杉並区)は翌明治5年8月19日1872年9月21日)に再度東京府へ移管されている[31]1876年(明治9年)4月18日には足柄県が廃止され、同県の旧相模国地域は神奈川県に、旧伊豆国地域は静岡県に編入された[32]。この時点で、現在の神奈川県の原形が完成した。しかし、上からの行政区域の改編は地域住民の生活感情を無視するものとして、足柄県の廃止の後10年経過した1886年(明治19年)に、再興を願い出ている[33]

1878年(明治11年)、郡区町村編制法により県内に横浜区および久良岐郡橘樹郡都筑郡西多摩郡南多摩郡北多摩郡三浦郡鎌倉郡高座郡大住郡淘綾郡足柄上郡足柄下郡愛甲郡津久井郡の15郡が編成された(東京府に再移管された旧多摩郡域は東多摩郡となった)[34]。その後1893年(明治26年)4月1日には、西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡が東京府へ再移管されたため[35]、現在の県域が確定する。その後1896年(明治29年)3月26日郡制の施行に際して大住郡淘綾郡が統合されて中郡となる。

近代には東京の外港都市となった開港場・横浜を中心に京浜工業地帯が形成され、商業・工業が発展した。

1923年大正11年)9月1日関東大震災(関東地震)では、小田原三浦半島の直下が震源となったことから、大きな被害を受けた。また、当時としては珍しい大規模な都市計画が当時軍都であった相模原市で実施され、現在でも碁盤の目の道路などに名残が残る。

1938年(昭和13年)6月30日に台風接近に伴う豪雨があり死者45人以上、倒壊家屋全壊154戸、半壊208戸、床上浸水13589戸以上、床下浸水20191戸以上[36]。さらに9月1日にも台風接近があり死者4人、家屋全壊468戸、家屋半壊2931戸、床上浸水918戸以上、床下浸水4906戸以上[37]

東京湾の入口を制する横須賀市に置かれた横須賀港は戦前から日本海軍最大級の軍港であったことから、第二次世界大戦中には、県民生活にも様々な制限が加えられた。例えば1944年昭和19年)8月5日からは横須賀鎮守府の要請で横浜市本牧以南から相模川河口東側にかけ、軍事上の理由から海水浴を制限[38]。自由に泳ぐことすらできなくなった。さらに戦況が悪化すると横浜市を始めとする沿海都市が空襲艦砲射撃を受けるようになり、直接、生命や財産に危険が及ぶこととなった。横須賀三笠公園記念艦「三笠」

第二次世界大戦末期には、アメリカ軍の激しい爆撃が市街地や工業地帯に対して行われた。1945年(昭和20年)5月29日横浜大空襲による3787人も含め、県内の空襲による死者数は6279人を数えた[39]

第二次世界大戦後も、横須賀市には海上自衛隊自衛艦隊司令部やアメリカ海軍第7艦隊司令部が置かれている。また、相模原市座間市に広がるキャンプ座間綾瀬市大和市に跨る厚木海軍飛行場相模原市相模総合補給廠米軍相模原住宅など、神奈川県には現在沖縄県に次いで多くの米軍関連施設が存在する。


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