神奈川県
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神奈川県域は、相模国八郡[注釈 4]武蔵国三郡[注釈 5]からなる。国司が政務を執る政庁国衙)は、国府と呼ばれた。

相模国府は、『和名類聚抄』(931年?938年編纂)には大住郡平塚市)、『伊呂波字類抄』(平安時代末?鎌倉時代初期成立)には余綾郡中郡大磯町)にあったとあることから[注釈 6]、所在地に変遷があったとして長く論争が行われてきた[17]相模国分寺高座郡(現海老名市)にあることから、江戸末?明治時代に「高座郡(海老名)→大住郡(平塚)→余綾郡(大磯)」という「国府三遷説A」が提唱されたが、大正?昭和初期には「大住郡(平塚または伊勢原市)→余綾郡(大磯)」の「国府二遷説」も浮上した。さらに1950年代以降、小田原市足下郡)で発見された「千代寺院(千代廃寺)跡[18]」を初期の相模国分寺と見て「足下郡(小田原)→大住郡(平塚)→余綾郡(大磯)」という「三遷説B」が提唱された。現代の考古学発掘調査成果では、1989年(平成元年)に平塚市四之宮の稲荷前A遺跡で「国厨」「大住厨」銘のある墨書土器が出土したことや[19]、2004年(平成16年)の湘南新道建設事業に伴う調査で同市四之宮の六ノ域・坪ノ内遺跡から国府脇殿と見られる8世紀前葉の大型掘立柱建物が検出されたことで[20]、相模国府は成立当初から平塚(大住郡)にあり、後に余綾へ移転したとする「二遷説」が有力化してきている[17][21]

武蔵国府は、東京都府中市大國魂神社付近とされ、神社境内の東隣から国庁脇殿と考えられる掘立柱建物跡やが出土し、武蔵国府跡として国の史跡に指定されている。

聖武天皇によって天平13年(741年)に詔が出され、全国に国分寺(僧寺と尼寺)が造営された。武蔵国分寺は東京都国分寺市に所在し、僧寺は中門・金堂・講堂が一直線に並ぶ東大寺式伽藍配置である。寺域は3?4町四方(約15ha)で、全国でも最大規模に属する。

相模国分寺は、海老名市国分にある。僧寺は東西160m、南北120mの回廊をめぐらし、中門・東西に金堂と塔・講堂が配置された法隆寺式伽藍配置で、詔が出された天平より古い白鳳様式であるので、郡司の氏寺を改修したものと考えられている。尼寺は、中門・金堂・講堂と並び、講堂の両脇に経蔵と鐘楼がある[22]

延喜式内社としては足上郡寒田神社、余綾郡に川勾神社、大住郡に前鳥神社、高部屋神社、高座郡寒川神社(名神大社)などが鎮座する。
中世鎌倉鶴岡八幡宮

中世には鎌倉に初めて幕府が開かれ、武家政治の中心となる(鎌倉時代)。

室町時代には、室町幕府により、関東八ヶ国(関八州)及び甲斐伊豆の十カ国[注釈 7] を統治する為に鎌倉府が置かれている。実質的な政務は、鎌倉府の長である鎌倉公方ではなく、補佐役の関東管領が執り行っていたため、関東管領の直轄地となっていた。

戦国時代には小田原城を拠点とする戦国大名北条氏が旧支配勢力を滅ぼし、関東の覇者として不動の地位を固めた。後北条氏の優れた統治のもと、小田原は関東最大の都市(城下町)に成長した。独自に日本国外と交易を行い、城下に唐人町を抱え、3代当主北条氏康によって日本で初めての水道である小田原早川上水が建造されるなど、当時「西の山口、東の小田原」と謳われた程国内でも発展した都市の一つとなっていた。
近世小田原小田原城

江戸時代には小田原藩が存在したが、旗本領も多く、三浦按針(ウィリアム・アダムス)が徳川家康から三浦半島に領地を拝領したことは有名である。江戸時代中期以降、現県域内に本拠を置いたのは小田原藩のほかに同藩の支藩である荻野山中藩および武蔵金沢藩(六浦藩)があり、ほかに県域外に本拠を置く藩(烏山藩佐倉藩西大平藩など)の飛地が多く配された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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