県内の市町村数は33で、うち市は19、町は13、村は1(清川村)である。県内の政令指定都市は全国で唯一の3市(横浜市・川崎市・相模原市)、中核市は横須賀市の1市、施行時特例市は小田原市・大和市・平塚市・厚木市・茅ヶ崎市の5市である。藤沢市は人口が30万人を超えているが、中核市に指定されていない。 神奈川県は関東地方の南西部に位置する県で首都圏の一角を成し、元の相模国全域と武蔵国の一部が該当する。面積は2416.33平方キロメートル(km2)で国土の約0.6%を占め[3]、これは都道府県中第43位の規模である[3][注釈 3]。人口は9,218,071人(2024年4月1日現在)[4] で、総人口の約6.9%を占める。みなとみらい(横浜市)の夜景 東日本に属するが、場合によっては中日本に分類されることもある。例として県内を通る東名高速道路と中央自動車道、小田原厚木道路は中日本高速道路の管轄である。 県庁所在地である横浜市を中心に企業の進出が活発であり、2021年の神奈川県への本社移転数は327社で東京都に次ぐ第2位。転入超過は146社で全国トップとなっている。また、32年連続で県内転入が県外転出を上回っている[5]。日本の都道府県で唯一、県内に3つの政令指定都市(横浜市・川崎市・相模原市)を有している。特に県庁所在地の横浜市の人口は約370万人であり、日本の基礎自治体の中で最大の人口を誇る。一方で東京都区部(23区)に通勤通学する人も多く、県内の昼夜間人口比率は90弱程度である[6]。他の首都圏の政令指定都市と同様に、横浜市・川崎市・相模原市の3市も昼夜間人口比率が100を下回るなど、県内全域が東京のベッドタウン(衛星都市)的な性格が強い。(「神奈川都民」も参照)[7]。 県東部の川崎市、横浜市は、都市化・工業化が進んでおり、東京湾に面した京浜工業地帯の一角を形成する。県西部は緑豊かな丹沢山地から足柄山地、箱根山が連なり、酒匂川が流れる足柄平野には小田原城の城下町・小田原市が開ける。県中央部は相模原市、厚木市、海老名市などの平野部で都市化・工業化が進んでおり、相模川が流れ平塚市から相模湾に注ぐ。県南東部は、海沿いの湘南エリアの茅ヶ崎市、藤沢市が開け、鎌倉幕府が置かれた鎌倉市から、明治以来の軍港都市・横須賀市がある三浦半島にかけて、三浦丘陵が連なる。 新都心の横浜みなとみらい21、横浜赤レンガ倉庫、元町・横浜中華街といった都市部の観光地だけでなく、箱根、茅ヶ崎、江の島(藤沢市)といった山や海のリゾート地にも恵まれている事から首都圏を中心に日本全国から観光客が訪れる県になっている。 県域は、古くは相模国の中心である相模湾沿岸部と相模川流域部が栄えた。川崎市と横浜市の大部分を占める武蔵国の領域は、古東海道(矢倉沢往還)沿いと東京湾沿岸を中心に小規模な農漁村が形成された。相模国府は所在地が特定されていないが、現在の平塚市、大磯町、海老名市、小田原市域に置かれていたという説がある。 平安時代から武士団の活動が活発化し、末期には征夷大将軍・源頼朝により鎌倉に鎌倉幕府が置かれた。鎌倉時代の始まりである(開幕の時期は諸説あり)。鎌倉には鶴岡八幡宮を筆頭に神社仏閣が多数建立され、鎌倉五山も整備され、武士の都として機能した。その後、執権北条氏によって運営された鎌倉幕府は元寇の恩賞を分け与えられず、全国的に反乱を招く。幕府自体も新田義貞の鎌倉攻めにより滅亡。足利尊氏による室町時代へと時代は移る。室町時代には鎌倉公方が東の将軍府として置かれるも、政権争いが絶えず、最終的に鎌倉公方は茨城県古河に移り古河公方となり、武家の都・鎌倉の終焉を迎える。その際に鎌倉の街並みも破壊され、現在に至る街の連続性は失われた。 戦国時代には北条早雲が相模・伊豆を切り取り、日本最初の戦国大名となる。その後5代続いた後北条氏の拠点である小田原は隆盛を誇り、関東制覇に邁進した。当時の小田原城下の発展は西の山口に対し、東の小田原とまで言われた。日本最初の上水道も、この時代に整備された。しかし豊臣秀吉の快進撃の前に降伏を余儀なくされ、戦国大名としての北条氏は断絶に至った。秀吉の全国制覇の際、北条氏の領土は徳川家康に移り、家康は拠点を小田原から江戸に移した。その後江戸時代には江戸幕府の置かれた江戸への交通路として東海道が整備され、東京湾沿岸部の開発が進んだ。県域には幕府直轄の代官支配地と旗本・御家人の所領が多く配された。江戸時代中期以降、県域内に本拠を置いた大名領(藩)は西部の小田原藩(小田原市)及び規模の小さい2藩(荻野山中藩(厚木市中荻野)、武蔵金沢藩(六浦藩、横浜市金沢区))のみであるが、一方で県域外に本拠を置く大名の飛地領が多く置かれ(烏山藩(栃木県那須烏山市)、佐倉藩(千葉県佐倉市)、西大平藩(愛知県岡崎市)など)、県域内の支配はモザイク状に細分されていた。
概要
概史