神奈川中央交通
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弘明寺 - 大岡川村 - 本郷村 - 鎌倉町小町、弘明寺 - 日下村田中 - 屏風浦村杉田 - 横浜市滝頭町、鎌倉駅 - 逗子駅、逗子駅 - 六浦荘村三分瀬戸1931年11月湘南乗合自動車(現在の京浜急行バス)に譲渡)、横浜市南吉田町 - お三の宮 - 引越 - 戸塚町旭町、鎌倉駅 - 長谷大仏前 - 藤沢駅などを運行していた。1923年9月の関東大震災の影響を受け社業が傾いたが、それでも同月横浜市八幡橋 - 横浜駅(現在の桜木町駅)の新線を開業させた。しかし、奏功せず1925年に横浜市八幡橋 - 横浜駅、鎌倉駅 - 逗子駅、鎌倉駅 - 藤沢駅各線の撤退を余儀なくされた。1928年梁瀬長太郎ヤナセ創業者)が社長に就任。横浜市南吉田町 - 戸塚町旭町の路線の起点を横浜市吉野町に変更して再建に務めていた。

1920年に伊勢原自働車運輸が平塚と伊勢原市を結ぶ路線[6]、1921年に秦野自動車が秦野と平塚を結ぶ路線の運行をそれぞれ開始した[6]。同年に大谷仁三郎が橋本田名村を結ぶ路線などの運行を開始し[6]、厚木町の有力者は厚木と横浜を結ぶ路線を開設したのち、1923年に設立された中央相武自動車に営業譲渡した[6]。ほかに片瀬自動車商会が厚木と藤沢を、鶴屋商会(鶴屋自動車商会とも)が厚木と戸塚を、結ぶ路線を開業するなど、1930年に10数社がバス事業を設立している[6]東海道本線の鉄道駅と大山道の宿場町を結んで開設された路線が目立つ一方、東京府におけるバス営業は、1934年に原町田乗合自動車が原町田鶴川淵野辺小野路を結ぶ路線を開業させた[10]
自主統合の流れ

小規模なバス事業者の乱立は、結果的に競合による疲弊を招き[10]、資本力のある事業者が小規模事業者を買収し合併することで、事業規模を拡大すると共に無益な競合を解消する気運が現れ始めた[11]。こうした自主的な統合という方向性は、1931年に公布された自動車交通事業法の目的である「交通企業の合理化と交通事業の統制」にも叶うものであった[10]

1928年(昭和3年)に、伊勢原の伊勢原自働車運輸が同じく伊勢原を拠点としていたサンエキ自動車と合併して伊勢原サンエキ自動車と改称して[12]1932年(昭和7年)に伊勢原自動車へ社名を変更した[11]1931年(昭和6年)2月17日に江之島自動車、片瀬自動車商会、鵠沼自動車が合併して設立[10]された藤沢自動車は、藤沢近辺にとどまらず、厚木・津久井方面まで沿線事業者と合併の上規模を拡大した結果[11]1937年(昭和12年)には、営業キロが約300キロメートルで車両数約60台を有する大手事業者となり[11]、同年6月25日に同社は京王電気軌道の傘下となる[10]。その一方、藤沢自動車と競合する相模鉄道は自社の相模線を擁護するため[12]、1935年に大谷仁三郎の個人経営だった橋本・渕野辺から田名にいたる路線を譲受し[11]1936年(昭和11年)に愛高自動車商会の厚木と上溝を結ぶ路線を買収し、沿線を自社バス路線の営業エリアとした[13]。また同年には東京新宿に拠点を置く関東乗合自動車が原町田乗合自動車を合併している[11]

1936年横浜市の相武自動車も同年12月28日鶴屋商会と戸塚自動車商会を合併して翌年1月12日に相武鶴屋自動車と改称した[10]。相武鶴屋自動車は1938年5月10日に東京横浜電鉄の傘下に入り、すでに東横傘下に入っていた中央相武自動車を1939年(昭和14年)6月16日に合併して東海道乗合自動車と改称し、主に東海道本線沿線へ路線を展開した[11]1941年(昭和16年)12月15日に東横系となっていた関東乗合自動車の町田営業所を継承し[10]、同じく東横傘下になっていた江ノ島電気鉄道の茅ヶ崎・平塚の2路線を譲受した[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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