熊襲を征した後のことである。皇后は火前国で誓約(うけい)を行い「西の財(たから)の国を得られるならば魚はこの釣針を飲むだろう」と宣言して釣りをした。すると細鱗魚(鮎[10])が釣れた。なかなか「めずらしい」ということで、この土地は「めずら」と名付けられ、後に訛って松浦(まつら)と呼ばれるようになった。松浦の女性は『日本書紀』が書かれた頃になっても4月上旬に釣針を河中に投げて魚を捕る風習を残していた。しかし男が釣ろうとしても魚は取れなかったと伝えられる。 渡海の際は、月延石
月延石
忍熊王を菟道に追い詰めていたときのことである。昼なのに夜のような暗さが続き、これを「常夜行く」といった。原因を占ってみたところ二人の神官を共葬したためでないかと出た。そこで聞きまわってみると怪しげな話が見つかった。この土地の神官である小竹と天野は親友だったが、小竹が病気になって死ぬと天野は血の涙を流して嘆き悲しみ殉死して共葬を望んだという。すぐに墓を暴いてみると事実だったので棺を新しく作って別々の場所に埋めた。するとすぐに日光が降り注ぎ、再び昼と夜が分かれたということである。 住吉三神とともに住吉大神の1柱として、また応神天皇とともに八幡三神の1柱(祭神)として信仰されるようになる。武家社会の神である八幡神の母にあたる神であり、数多くの武人が神功皇后を崇拝していた。有名なのが八幡太郎こと源義家である。また八幡神と同じく、その言い伝えは九州はもとより関東から近畿の大津や京都や奈良や大阪の住吉大社、瀬戸内海を挟んで広島や岡山、四国と、日本中に数多く存在する。今でも全国各地で神功皇后の三韓征伐を祝うための山車が存在しており、その業績をたたえる祭りが多い。 大分県の宇佐神宮、大阪府大阪市の住吉大社をはじめ、福岡県福津市の宮地嶽神社、福岡県大川市の風浪宮、京都市伏見区の御香宮神社など、いくつかの神社の祭神となっている。所縁ある福岡市の香椎宮や筥崎宮、福岡県宇美町の宇美八幡宮、壱岐市の聖母宮でも祀られている。 そのほか、以下のものがある。 明治から太平洋戦争敗戦までは学校教育の場で実在の人物として教えられていたが、現在では実在説と非実在説が並存している。津田左右吉は、倭国が一時新羅を圧服したのは事実だが、神功皇后は物語であって史実ではなく、6世紀前半から中葉の継体から欽明朝にかけての成立と推定した。[11]直木孝次郎は、斉明天皇と持統天皇が神功皇后のモデルではないか?の説を唱えている。井上光貞は神功皇后の物語が完成したのは、斉明天皇が660年に筑紫に遷幸し唐・新羅との戦いに備えた7世紀以降の事だと述べている(『日本国家の起源』)。[12]大津透は神功皇后説話の成立時期は7世紀という説を載せている[13]。実在すると仮定しても皇后となるには仲哀天皇と血縁が離れすぎており、一方で香坂王、忍熊王の母である大中姫は皇后より下位の妃(みめ)と記述されているものの天皇の従姉妹なので血縁の近さを重視する古代においてはより皇后にふさわしい。大中姫が真の皇后だった場合、神功皇后と後に呼ばれた気長足姫は仲哀天皇とともに行った九州遠征で成果を出して、武内宿禰や武振熊命の協力を得てクーデターを起こしたことになる。また上記のように仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされるが、その間は天皇不在の空位である。神功皇后は摂政のまま崩御するまで息子を皇位につかせなかったことになるが、仮に女帝として即位していたのならこの不自然さは和らぐ。 『新唐書』列伝第145 東夷 日本[14]に「仲哀死、以開化曽孫女神功為王」、『宋史』列伝第250 外国7 日本国[15]に「次 神功天皇 開化天皇之曽孫女、又謂之息長足姫天皇」とあるが、『宋史』には10世紀に日本から渡った僧・「然が伝えた『王年代紀』の内容を掲載したと明記されている。『新唐書』が編纂されたのも11世紀であり、やはり『王年代紀』を参照したと考えられる。明治時代以前は、神功皇后を天皇(皇后の臨朝)とみなして、第15代の帝とした史書もあったが、1926年(大正15年)10月の皇統譜令に基づき、皇統譜の歴代天皇から外された。 『日本書紀』には『魏志』と現存しない『晋起居注』から「倭の女王」についての記述が引用されている。『魏志』での倭の女王とは邪馬台国の卑弥呼のことであり、江戸時代までは神功皇后が卑弥呼だと考えられていた。ただし倭の女王の記述はあくまでも引用されているだけであり神功皇后と卑弥呼、台与を同一視する記述はなく、卑弥呼、台与、邪馬台国といった魏国が書き記した名称も『日本書紀』には書かれていない。神功皇后と卑弥呼を同一視させようと意図的な作意があると見る研究者もいる。『魏志』からの引用は現存する『魏志』と相違があり、特に人名・役名に相違が多いため、以下の訳文では現存の『魏志』に基づく人名・役名を示す。
信仰
一幡神社(静岡県 牧之原市)
城南宮(京都府京都市伏見区中島鳥羽離宮町)
甲山(兵庫県西宮市)
廣田神社(兵庫県西宮市大社町)
生田神社(兵庫県神戸市中央区下山手通)
長田神社(兵庫県神戸市長田区長田町)
海神社_(神戸市)(兵庫県神戸市垂水区宮本町)
三石神社(兵庫県神戸市兵庫区和田宮通)
二宮神社(兵庫県神戸市中央区二宮町)
弓弦羽神社(兵庫県神戸市東灘区御影郡家)
魚吹八幡神社(兵庫県姫路市網干区宮内)
松原八幡神社(兵庫県姫路市白浜町甲)
牛窓神社(岡山県瀬戸内市牛窓町牛窓)
大足智姫神社(愛媛県 新居浜市)
宮地嶽神社(福岡県福津市宮司元町)
警固神社(福岡県福岡市中央区天神)
皿倉山(福岡県北九州市八幡東区)
大分八幡宮(福岡県飯塚市大分)
花岡八幡宮(山口県下松市末武上)
唐津神社(佐賀県唐津市)
和白(福岡・日本議会最初の発源地とされている場所)
七支刀
船鉾、大船鉾、占出山(祇園祭)
考証
実在性と実態
即位説
卑弥呼との関係
神功皇后摂政39年(239年)
魏志云「明帝景初三年六月 倭女王 遣大夫難斗米等 詣郡 求詣天子朝獻 太守ケ夏 遣吏將送詣京都也」(訳:魏志によると明帝の景初3年6月、倭の女王は大夫の難升米等を郡(帯方郡)に遣わし天子への朝獻を求め、太守の劉夏は吏將をつけて都に送った)
神功皇后摂政40年(240年)
魏志云「正始元年 遣建忠校尉梯携等 奉詔書印綬 詣倭国也」(訳:魏志によると正始元年、建中校尉の梯儁らを遺わして倭國に詔書・印綬を与えた)
神功皇后摂政43年(243年)
魏志云「正始四年 倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻」(訳:魏志によると正始4年、倭王はまた大夫の伊聲耆・掖邪狗たち8人を遣わして朝貢した)
神功皇后摂政66年(266年)
是年 晋武帝泰初二年晋起居注云「武帝泰初二年十月 倭女王遣重譯貢獻」(訳:この年は晋の武帝の泰初(泰始の誤り)2年である。
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