20世紀になって、伝統的な信条・理性が失権したことは、多くの人々にとって現実の問題として自覚された[11]。1950年代のアメリカでは、「神の死の神学」が模索された[11]。この神学は、超越的存在 ―― 伝統的な意味での「神」 ―― を否定した上で成り立つ、宗教的信仰の立場だった[11]。 ニーチェの『悦ばしき知識』(Die frohliche Wissenschaft,1882)の108章、125章、343章で言及されている。その内、最も著名なのは125章の記述であるが、今、ドイツ語版Wikipedia
由来
とあり(todt は tot の古いスペル)、英語版WikipediaではGod is dead. God remains dead.And we have killed him.How shall we comfort ourselves, the murderers of all murderers?
とある。また、『ツァラトゥストラはかく語りき』(1885年)の冒頭部分は、アフォリズム形式で書かれた『悦ばしき知識』(1882年)の思想を承けて書き起こされたものである。 以前は、神を冒涜することが最大の冒涜だった。だが神は死んだ。と同時に、神を冒涜する連中も死んだ。この地上を冒涜することが、いまでは一番恐ろしいことなのだ![8] 神というのは、大雑把な答えである。われわれ考える人間にとっては、まずい料理である。――それどころか、要するに、われわれに対して「汝、考えることなかれ!」と戒めるだけの大雑把な<<禁止>>にすぎないのだ。・・・・・・それとは全く別の問題に私は興味がある。どこかの神学者の骨董品のような問題よりは、ずっと「人類の幸せ」にかかわることだ。<<栄養>>の問題である。[12] だが問題は、私が生理学を知らなかったことだ。――私は「理想主義」に呪われていたのである。 […] たとえば私は文献学者になったのだが、――せめて、どうして医者にならなかったのだろう? 医者でないにしても、目を開かせるような仕事に就かなかったのだろう? […] 私がほとんど終わりかけている<<という事実>>によって、私は、私の人生の根本的な非理性――つまり「理想主義」――のことをじっくり考えるようになった。<<病気>>が私をはじめて理性へと導いてくれたのである。――[13] 「神」という概念は、生の反対概念として発明された。 […] 「彼岸」や「真の世界」という概念がでっち上げられたのは、存在している<<唯一の>>世界を無価値にするためである。――われわれの地上の現実のための目標や理性や使命が存在する余地をなくすためである。 「魂」や「霊」や「精神」という概念が、それになんと「不滅の魂」という概念までがでっち上げられたのは、からだを軽蔑するためである。からだを病気に――「神聖」に――するためである。人生で真剣に考えられるべきすべてのこと、つまり栄養、住居、精神の食餌、病気の治療、清潔、天気の問題を、身の毛もよだつほど軽率に扱わせるためである! 健康のかわりに「魂の平安」が持ち出されるが、――それは、懺悔の痙攣と救済のヒステリーを往復する周期性痴呆症なのだ![14] あなたがね、大きな使命を果たすよう定められているのなら、なおさらあなた自身、傷つくでしょう。 答えはこうだ。こういう小さなこと――つまり栄養のことや、土地のことや、気候のことや、保養のことや、それから自分欲のアラを探すことですが――こういうことこそ、これまで重要だと思われてきたどんなことよりも、はるかに重要なんですよ。まさにこの点において、<<学習の転換>>をはじめる必要があるんです。 これまで人類が真剣に検討してきたことは、現実ですらないんですよ。たんなる想像にすぎない。もっと厳密に言うとですね、病気の人間たちの、もっとも深い意味で有害な人間たちの、劣悪な本能から生まれた<<嘘>>なんですよ。――「神」、「魂」、「徳」、「罪」、「彼岸」、「真理」、「永遠の命」などの概念は、みんな嘘なんです。 ・・・それなのに人間の本性の偉大さを、人間が「神のようであること」を、そんな概念のなかに求めてきたわけですね。・・・政治、社会秩序、教育などの問題はすべて、そのために底の底まで偽造された問題となっている。[15] 超人とは、この地上の意味のことだ。君たちの意志は、つぎのように言うべきだ。超人よ、この地上<<であれ>>、と! […] <<この地上に忠実であれ!>> 地上を超えた希望を説くやつらの言うことなんか、信じるな! […] やつらは、生を軽蔑している。死にかかっていて、自分も毒に当たった。連中にはこの地上のほうでもうんざりしている。とっとと消えうせるがいい![8] 以前は、魂がからだを軽蔑の目で見ていた。当時は、そんなふうに軽蔑することが最高の態度だった。――からだなど、痩せて、醜く、飢えたものであればよい。そう思って、魂は、からだやこの地上から逃れようとした。 ああ、だが魂のほうこそ、痩せて、醜く、飢えていたのだ。そして残酷であることが、魂の快楽だった![16] 哲学者の仲島陽一が言うには、ニーチェは医療科学や自然科学を引き合いに出すことで自らの主張に「根拠付け」しようとしており、例えばニーチェは次のようにも記している[5]。 医師であること、情け容赦なくやること、メスを振るうこと、 ―― これぞ私達のなすべきことである。[17] 教育学者・教育哲学者の菱刈晃夫によると、ニーチェ、マルキ・ド・サド、ショーペンハウアー等やその流れを継ぐ思想家たちの共通点は、自然法則や自然科学を重視して、信仰や伝統を批判する点である[18]。チャールズ・ダーウィンたちによれば、自然および「自然の手先」である生物(人間)に、「善」や「悪」のような倫理的価値は全く無い[18]。自然も生物も、ただ科学的に「あるがゆえにある」だけであり、この認識はニーチェたちが広めた思想にも共通している[18]。「進化論」および「種の起源」も参照
関連するニーチェの記述例
神の死と神の冒涜者の死
栄養・生理学の問題
地上・からだの復権
生活・現実の復権
地上の人・超人
理数系や科学との関係
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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