祇園祭
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それによれば、鉾を取り巻く「鉾衆」の回りで「鼓打」たちが風流の舞曲を演じたというものである[5]。南北朝時代には、富裕な町人層が競って風流拍子物をくり出し、さらに室町将軍家が調進した「久世舞車」や大舎人座(現:西陣)が出した「鷺舞」など、さまざまな形の付祭の芸能が盛んになった[6]

室町時代に至り、四条室町を中心とする(旧)下京地区に商工業者(町衆)の自治組織両側町が成立すると、町ごとに趣向を凝らした山鉾を作って巡行させるようになった。それまで単独で巡行していた竿状の鉾と、羯鼓舞を演ずる稚児を乗せた屋台が合体して、現在見られるような鉾車が成立し、さらに主に猿楽能の演目を写した作り物の「山」が加わることによって、室町時代中期には洛中洛外図に見られるような、今日につながる山鉾巡行が成立したものと見られる[注釈 2]

応仁の乱による33年の中断を経て、1500年明応9年)、祇園会が再興された。明応年間に打ち続いた災異、ことに1498年(明応7年)の東海大地震・大津波による列島規模の大災害の発生が祭礼の復興を後押ししたものと見られる。復興にあたって室町幕府奉行衆松田豊前守頼亮が過去の山鉾について「古老の者」より聞き取りを行い、応仁の乱以前の60基(前祭32基、後祭28基)[7]の山鉾を知る唯一の史料とされている「祇園会山鉾事」(八坂神社文書)として書きとめたほか[8]、初めてのくじ取り式を頼亮私宅で行い[9]、町人主体の祭りとなるよう祇園執行に申し聞かせるなど、祇園祭の再興に尽力し、現在に続く山鉾の数と名称が固定した[注釈 3]。頼亮も自身の在職中に祇園祭が再興されたことは冥加であると記している[10][11]

1533年天文2年)、先述の理由による延暦寺側の訴えにより、祇園社の祭礼が中止に追い込まれたが、町衆は「神事これ無くとも山鉾渡したし(神社の行事がなくても、山鉾巡行だけは行いたい)」という声明を出し、山鉾行事が既に町衆が主体の祭となっていたことを窺わせる[12]。そして、天文法華一揆のさなか、延暦寺と結託した幕府の祇園会停止の命令に反して、(神事は中止されたものの)山鉾巡行は行われたという。町衆の自治的性格を象徴する話として特に有名である。
近世以降の祇園会の発展1920年代の祇園祭

江戸時代に発生した京都の三大火事によって、祇園祭も大きな被害を受けた。1708年宝永5年)の宝永の大火では、まだ山鉾も素朴な形式であったために復興が早かった。しかし1788年天明8年)の天明の大火の被害は大きく、函谷鉾は復興に50年を要した。その後の山鉾復興は、化政文化の波に乗り、山鉾の大型化、部品・懸装品の華美化が進み、曳山の多くも仮屋根から、鉾と変わりない千鳥破風をかけるようになった。しかし、鷹山は1826年文政9年)の巡行で大雨に遭って懸装品を破損したとして巡行に加列しなくなった。

幕末禁門の変によって発生した1864年元治元年)のどんどん焼けは、山鉾町に多大な被害をもたらし、ほぼ無事だったのは長刀鉾・函谷鉾・月鉾・岩戸山・霰天神山・伯牙山・保昌山だけであった。引き続いて明治維新の混乱期に入ったため、菊水鉾・大船鉾・綾傘鉾・蟷螂山・四条傘鉾は以後長い間断絶した。

明治維新以後、山鉾巡行を支えていた寄町制度が廃止され、行事の存続が危ぶまれる時期を乗り越えて復興した。巡行コースの度重なる変更や、第二次世界大戦の影響による中断(1943年昭和18年) - 1946年(昭和21年))はあったものの、戦後は菊水鉾を皮切りにして、中絶していた「休み山」(焼山)が1980年代に次々に復興した。高度経済成長期の交通事情の悪化により前祭・後祭を統合して合同巡行にした時期(1966年(昭和41年) - 2013年平成25年))を経て、2014年(平成26年)からは後祭も再開され、古式を保つ努力が続けられており、祇園御霊会としては1150年を超える歴史を誇る。

明治時代の祇園祭はコレラの歴史でもあり、1886年(明治19年)、1887年(明治20年)、1895年(明治28年)にコレラの影響による祇園祭の延期が確認されている[13]。また、コレラを克服して日本を衛生管理の行き届いた文明国家としてアピールするのは日本の急務であり、屎尿の運搬制限や飲食物の注意呼びかけなどコレラのために様々な対策が取られた[14]

室町時代以来、祇園祭のクライマックスは山鉾巡行であるが、現在では「巡行の前夜祭」である宵山に毎年40万人以上の人が集まるため、祇園祭といえば宵山を先に思い描く人も多い。

第二次世界大戦後、京都市の中心部もドーナツ化現象が進んだことにより、多くの山鉾町の居住者が減少し、山鉾行事の運営に支障が出た。そのため曳き手をアルバイトに頼ったり町内にある企業に応援を依頼することが増えた。その後町内にマンションが建った場合も、新しく転入した住民は「新住民」などと呼ばれ、以前は山鉾保存会に入会できなかった。1986年(昭和61年)以降、各山鉾町は順次新住民の保存会加入を認めるようになり、現在では新しく建つマンションの居住者に保存会加入を勧める所が多くなっている[15]。以前多かった呉服商などの減少とそのあとに多く建てられたマンションにより、多くの山鉾町が保存会会員不足から脱している。現在では、四条烏丸交差点に近い長刀鉾、函谷鉾の町内は居住人口がゼロで、孟宗山、鶏鉾の町内も人口が極めて少ないが、最も人口が多い蟷螂山町は相次ぐマンションの建築により、人口が約750人に達している。
第二次世界大戦後の祇園祭

1947年 長刀鉾と月鉾が戦後初めて建てられる。長刀鉾のみ四条寺町までの往復という形での戦後初の巡行を復活させる。

1948年 北観音山と船鉾が戦後初めて建てられ、四条寺町までの往復巡行を行う。

1949年 復活した山鉾が9基になり、戦後初めてくじ取り式を行う。鶏鉾・鯉山の懸装品が重要文化財指定。

1950年 山鉾が16基まで復活し、後祭巡行が戦後初めて行われる。

1952年 当時の全山鉾の巡行が復活する。松本元治の発願により、88年ぶりに菊水鉾が仮鉾で巡行に参加。

1953年 菊水鉾が本鉾で巡行に参加。

1956年 それまで四条烏丸出発、四条寺町で南下、寺町松原で西行していた前祭巡行のコースが、四条寺町で北上、寺町御池で西行し、烏丸御池で解散するコースに変更される。初めて御池通に有料観覧席が設置される。

1958年 この頃から、八坂神社舞殿で壬生六斎念仏講中により、綾傘鉾ゆかりの棒振り囃子を奉納。

1960年 町会所が借金トラブルで人手に渡った岩戸山が、蔵から山の部材を出す許可を新所有者から得られず、この年から2年間祭に参加できなくなる。

1961年 前祭のコースが四条河原町で北上、河原町御池で西行のコースに変更される。

1962年5月23日 山鉾29基が
重要有形民俗文化財に指定される。京阪神急行電鉄の地下線延伸工事のため、四条通の山鉾の通行が困難となったため、宵山は行われたが、この年の巡行は中止される[16]。この年以降、直近の2019年まで大雨の日を含めて山鉾巡行は毎年中止されず継続された[17]

1963年 保昌山が舁山として初めて車輪を取り付ける。

1966年 後祭が前祭と合同され、後祭巡行は前祭巡行の直後に続く形となる。なお、それまでの後祭の巡行コースは三条烏丸出発、三条寺町南下、四条寺町西行だった。後祭の巡行日だった24日には花傘巡行が創設される。また、この年は鈴鹿山が巡行の合同に抗議し、宵山には参加したが巡行は不参加。

1970年 円山公園内に作られた山鉾の部材倉庫である「祇園祭山鉾館」が使用開始。9基の舁山と1基の曳山が使用している。大阪の万国博覧会に数基の鉾が出場。

1972年 舁山で最後まで車輪を付けていなかった郭巨山に車輪が付き、これで全ての舁山に車輪が取り付けられる。

1977年 地下鉄烏丸線工事により、烏丸通の山鉾の通過が困難になったため、烏丸御池解散を御池新町解散に変更し、有料観覧席を新町通まで拡大。この年以降、解散後の山鉾は全て新町通を通過することになる。

1978年7月10日 高松宮・同妃を迎えて菊水鉾再建25周年式典が挙行される。

1979年2月3日 「京都祇園祭の山鉾行事」が、重要無形民俗文化財に指定される。7月の巡行から綾傘鉾が115年ぶりに復興。

1981年 蟷螂山が117年ぶりに復興。

1985年 町内に本店があった京都相互銀行社長・笠松齋の肝煎で、四条傘鉾の本体が再建。居祭に参加。

1988年 四条傘鉾が117年ぶりに巡行に参加。

1994年 京都文化博物館にて「祇園祭大展」を開催し山鉾懸装品の名宝を公開。

1996年 傘鉾の巡行順をシード制とし、くじ引きに加える。

2001年 金剛能楽堂の移転により菊水鉾の宵山飾りを中止。

2003年 菊水鉾の会所が金剛能楽堂跡に建ったマンションの2階に完成。

2009年9月30日 国連教育科学文化機関(ユネスコ)政府間委員会により、「京都祇園祭の山鉾行事」が、無形文化遺産の代表一覧表に記載される(ユネスコ無形文化遺産登録)。

2012年 大船鉾が唐櫃巡行の形で巡行に参加する。後祭巡行列のくじ取らずの山鉾の順行順が変更される。

2014年 7月24日の後祭が復活する。大船鉾が150年ぶりに復興する。花傘巡行のルートが変更され、寺町御池から四条河原町までは後祭山鉾巡行の直後を行くことになる。

2015年 前祭山鉾巡行は台風11号の影響により史上初の悪天候による中止の可能性があったが、強い雨の中決行される[18][19]。後祭の鷹山の祇園囃子が復興し宵山期間に演奏される。

2016年 大船鉾の舳先を飾る木彫の龍頭が復元される。幕末の禁門の変で焼失するまで、1年交代で舳先が大金幣と龍頭を交換していたことに因む復元である。

2018年 記録的猛暑で花傘巡行が中止になる。子供が多く参加するため、熱中症のリスクに配慮したためである。9月、綾傘鉾本体と長刀鉾の祇園囃子がアメリカオレゴン州ポートランド市の京都文化の紹介イベントで披露される。


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