祇園祭
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2019年(令和元年)の巡行からは大船鉾の正式復活前と同様に「唐櫃(からびつ)巡行」として巡行に参加し、最後の巡行から200年目の2026年までの復興を目指していたが、車輪等の古材を他の鉾から譲られたことから、それよりも早い2022年(令和4年)に巡行に復帰した[32]


巡行前の鷹山(2022年7月22日撮影)

船鉾


大船鉾(おおふねほこ・大舩鉾)/新町四条下ル四条町。戦からの帰りを表すため、かつては“凱旋船鉾”と称したが、1984年(昭和59年)に京都を訪問した全斗煥韓国大統領に配慮して大船鉾と改称した。1864年(元治元年)の禁門の変による大火で罹災後巡行を休止していたが、2012年(平成24年)より神面を木箱に納めて運ぶ「唐櫃(からびつ)巡行」として山鉾巡行に復帰。2014年(平成26年)から鉾を巡行[33]。御神体は船鉾と同じ神功皇后と住吉明神、鹿島明神、安曇磯良だが、後の3体は失われていたため2019年(令和元年)に復興した。4体とも甲冑をつけず凱旋の姿を表す。宵山では安産のお守りを授与。船首は2メートルの大金幣が幕末の焼失を逃れて伝えられていたものを使用。2016年(平成28年)には龍頭が復元され、2019年(令和元年)には金箔で装飾された。これは四条町が明治初年まで南北に分かれており、毎年交代で担当し、舳先の飾りも替えていたことに倣ったもので、今後も踏襲される予定という。※

休み山

布袋山 会所飾り(2019年7月15日撮影)

度重なる大火や各山鉾町の事情によって現在は巡行していないが、宵山期間に残された御神体や宝物等を展示する「居祭」を行う山鉾。大火で木造部や宝物を焼失したり、町の借金返済のために宝物を売却したりして、巡行ができなくなり休み山が発生する。なお、かつて存在したことが記録に残されているだけで、居祭を行っていない山(御射山など)は休み山とはいわない。かつては焼山(やけやま)と言った。第二次世界大戦後、菊水鉾・綾傘鉾・蟷螂山・四条傘鉾・大船鉾・鷹山が相次ぎ復興したことにより現在は1つの山だけが残されている。

布袋山(ほていやま)/蛸薬師通新町東入ル姥柳町。前祭の舁山。布袋和尚と二童子を神体とする。1500年(明応9年)に巡行に参加したという記録があるが、江戸中期の宝暦年間(1751年 - 1763年)より不参加といわれ、1788年(天明8年)の「天明の大火」で御神体の布袋尊と二童子のミニチュアを残し焼失。どんな趣向の山であったか分からず、謎に包まれている。2005年(平成17年)に安政年間(1854年 - 1859年)作製とみられる護符の版木が確認された。また、2006年(平成18年)には懸装品と伝わる織物が地元企業(川島織物セルコン)に保管されているのが確認され、実物大の模造品が宵山で展示された。この山も山を再建し、巡行参加を復活させる構想がある。なお、布袋山はかつての資料が全く残っておらず、現存する他の山を参照した全く新しい形の山の再建が検討されている。資金や技術伝承の問題があり、具体的なスケジュールは発表されていないが、布袋山は基本的な木組みが2012年(平成24年)に寄贈されており、10年以内の復興を目指していた。復興の機運の高まりとともに2016年(平成28年)までは7月13日の夕刻から宵山までの4日間、御神体を祀る居祭を行い、粽やお守りの販売や朱印の押印などを行っていた。ただ、2017年(平成29年)には町内会と保存会長の間にトラブルが発生し、神体などが町内会側に引き渡すよう裁判所から命令が出るなどし、2017年(平成29年)以降の宵山期間の居祭が大幅に縮小されるなどの影響が出ており、復興スケジュールに影響が出ることもありうる。

山鉾の巡行順

太字は「くじ取らず」。
前祭

1番目:長刀鉾

2番目:山一番

3番目:山二番

4番目:山三番

5番目:函谷鉾

6番目:山四番

7番目:傘鉾一番(四条傘鉾・綾傘鉾のいずれか)

8番目:山五番

9番目:鉾一番(菊水鉾・鶏鉾・月鉾のいずれか)

10番目:山六番

11番目:山七番

12番目:山八番

13番目:鉾二番(菊水鉾・鶏鉾・月鉾のいずれか)

14番目:山九番

15番目:傘鉾二番(四条傘鉾・綾傘鉾のいずれか)

16番目:山十番

17番目:鉾三番(菊水鉾・鶏鉾・月鉾のいずれか)

18番目:山十一番

19番目:山十二番

20番目:山十三番

21番目:放下鉾

22番目:岩戸山

23番目:船鉾

後祭

1番目:橋弁慶山

2番目:北観音山または南観音山(隔年交代・西暦奇数年は南観音山)

3番目:山(後)一番

4番目:山(後)二番

5番目:山(後)三番

6番目:南観音山または南観音山(隔年交代・西暦奇数年は北観音山)

7番目:山(後)四番

8番目:山(後)五番

9番目:山(後)六番

10番目:鷹山

11番目:大船鉾

2022年


1番目:橋弁慶山

2番目:北観音山

3番目:山(後)一番

4番目:山(後)二番

5番目:山(後)三番

6番目:南観音山

7番目:山(後)四番

8番目:山(後)五番

9番目:山(後)六番

10番目:鷹山

11番目:大船鉾

2019年から2021年まで


1番目:橋弁慶山

2番目:北観音山

3番目:山(後)一番

4番目:山(後)二番

5番目:山(後)三番

6番目:南観音山

7番目:山(後)四番

8番目:山(後)五番

9番目:山(後)六番

10番目:鷹山(唐櫃巡行)

11番目:大船鉾

2014年から2018年まで


1番目:橋弁慶山

2番目:北観音山

3番目:山(後)一番

4番目:山(後)二番

5番目:山(後)三番

6番目:南観音山

7番目:山(後)四番

8番目:山(後)五番

9番目:山(後)六番

10番目:大船鉾

2012年・2013年の両年


24番目:橋弁慶山

25番目:北観音山

26番目:山(後)一番

27番目:山(後)二番

28番目:山(後)三番

29番目:南観音山

30番目:山(後)四番

31番目:山(後)五番

32番目:山(後)六番

33番目:大船鉾(唐櫃巡行)

2011年以前


24番目:北観音山

25番目:橋弁慶山

26番目:山(後)一番

27番目:山(後)二番

28番目:山(後)三番

29番目:山(後)四番

30番目:山(後)五番

31番目:山(後)六番

32番目:南観音山

2013年(平成25年)までの先祭と後祭の合同巡行時は、先祭の行列の終了後に引き続いて後祭の巡行を行っていた。そのため、後祭の山鉾が全体の23番目より前に巡行することはなく、逆に先祭の山鉾の巡行順が全体の24番目以降になることもなかった。
過去

山鉾の頭文字を表示。[]はくじ取らず。
前祭

基準[長]山1山2山3[函]山4傘1山5鉾1山6山7山8鉾2山9傘2山10鉾3山11山12山13[放][岩][船]
2019年[長]蟷芦木[函]郭綾伯菊油太保鶏白四孟月山占霰[放][岩][船]
2018年[長]蟷霰油[函]孟綾白鶏太伯芦月山四占菊保郭木[放][岩][船]
2017年[長]占孟霰[函]伯四芦月山油太鶏木綾蟷菊白郭保[放][岩][船]
2016年[長]山白孟[函]太四占月芦蟷保鶏伯綾霰菊木郭油[放][岩][船]
2015年[長]孟芦伯[函]油四占月蟷木山菊郭綾太鶏白保霰[放][岩][船]
2014年[長]占芦孟[函]山綾伯菊太霰油鶏木四蟷月白保郭[放][岩][船]

後祭

基準[橋][北]山1山2山3[南]山4山5山6[大]
2011年以前[北][橋]山1山2山3山4山5山6[南][大]
2019年[橋][北]鯉八黒[南]役浄鈴[鷹]
2018年[橋][北]黒鯉鈴[南]役浄八[大]
2017年[橋][北]鯉役八[南]鈴浄黒[大]
2016年[橋][北]浄役黒[南]鈴八鯉[大]
2015年[橋][北]役八鈴[南]鯉黒浄[大]
2014年[橋][北]八浄鈴[南]鯉役黒[大]

くじ取らず

くじは全ての山鉾が引くわけでなく、くじを引かないでも予め順番が決まっているものもある。これを「くじ取らず」という。時代と共にその数と順序に変遷があるが、現在「前祭」・「後祭」共に5基のくじ取らずがある。

前祭においては、先頭の長刀鉾、5番目の函谷鉾、21番目の放下鉾、22番目の岩戸山、23番目の船鉾(前祭巡行の最後)、後祭においては、先頭の橋弁慶山、2番目の北観音山、6番目の南観音山、10番目の鷹山、11番目の大船鉾(後祭巡行の最後)が「くじ取らず」である。

後祭は従来、先頭の橋弁慶山、最後尾の大船鉾、その一つ手前の鷹山だけがくじ取らずであったが、隔年で出る申し合わせだった2基の観音山の内、南観音山が大火の被害甚だしく不出となった折、北観音山が連続して巡行に出で、その後南観音山が復帰した後も両観音山は同時に参加することとなった1872年(明治5年)以降、先頭に北観音山(必然的に橋弁慶山は2番に後退)、最後尾に南観音山を配置し、これらをくじ取らずに加えた。

しかし、142年ぶりに大船鉾が唐櫃で巡行に復帰した2012年(平成24年)に、くじ取らずの順序の見直しがなされ、後祭の先頭は140年ぶりに橋弁慶山に戻り、2番目が北観音山、最後だった南観音山は6番目に移り、かつて後祭の最後に巡行していた大船鉾が、復活後も最終に巡行することになった。2019年(令和元年)に鷹山が唐櫃で巡行に復帰したが、かつてと同様に大船鉾の直前を行くくじ取らずとなった。また、2023年から北観音山と南観音山がくじ取らずのまま「先番」と「後番」を隔年で交代することとなり、2023年は2番目を南観音山が、6番目を北観音山が巡行した。

また、くじ取らずではないものの、注目の鉾がくじによって連続しないよう一種の「シード制」を取り、限られた巡行順の中でのみくじによって位置を入れ替えるものもある。すなわち、月鉾・菊水鉾・鶏鉾の3基の鉾は巡行順が9番目・13番目・17番目と決められており、仮に「鉾1番」のくじだと全体の9番目を行く事になる。同様に綾傘鉾・四条傘鉾の2つの「傘鉾」は、巡行順が全体の7番目と15番目と決められており、「傘鉾1番」のくじだと全体の7番目ということになる。傘鉾の場合は古来舁山と同じ扱いでくじを引き、その度不規則に位置を変える慣わしであったが、1996年に「傘鉾」のくじが新設され、以来現在の形となった。

以上よりくじ順の実際を整理すると、例えば「山7番」を引いた場合でいえば、先頭を行く長刀鉾の次に「山1番」の舁山が全体でいう2番めに巡行し、その後にくじ取らずの函谷鉾と「鉾1番」の鉾・「傘鉾1番」の傘鉾が入るため、全体では11番目の巡行ということになる。
会所(かいしょ)

山鉾の運営基地となる建物。山鉾町の事務所として山鉾の収納、御神体の安置、祇園囃子の稽古場、懸装品の展観、授与物の頒布など、さまざまな用途に使われる。普通の町家と並んで存在するものは「表棟型町会所」と分類され、長刀鉾・月鉾・船鉾・放下鉾・北観音山・南観音山・山伏山・橋弁慶山・保昌山・郭巨山に古式なものが残る。大型の曳山の場合は、奥に立派な土蔵を備えている場合が多い。また表通りから狭い露地を通った奥に会所があるものは「奥棟型町会所」と分類され、舁山の町に多い。古式なものは役行者山・八幡山・鯉山・霰天神山・孟宗山・鈴鹿山・占出山の町内にある[34]。祭礼期間以外は適宜な店子に賃貸され、商家として利用された。江戸時代には髪結床となっていた場合も多い。明治維新以後、町会所が所有者不明として収公され、山鉾の運営に窮することになったり、会所の所有権をめぐる争いが長引いて山鉾が出せなくなった事例もある。長期にわたる中絶の後に復興した菊水鉾では、町内の金剛能楽堂を会所の代わりにしていたが、能楽堂の移転によって、跡地に建設されたマンションの2階を町が購入し、会所として利用している。鉾本体は1967年に京都市南区東九条南河辺町に新築された収蔵庫に保管されている[35]


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