祇園祭
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右上隅は蟷螂山(右)と四条傘鉾(左)[1]
祇園御霊会の起源

疫病の流行により朝廷は863年貞観5年)、神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)を行った。御霊会は疫神や死者の怨霊などを鎮めなだめるために行う祭で[2]、疫病も恨みを現世に残したまま亡くなった人々の怨霊の祟りであると考えられていた[3]。しかし、その後も疫病の流行が続いたために牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災を祈念した。

864年(貞観6年)から富士山の大噴火が起こって溶岩が大規模に流出して山麓に達し、869年(貞観11年)には陸奥で貞観地震が起こり、津波によって多数の犠牲者が出るなど、全国的に地殻変動が続き、社会不安が深刻化する中、全国のの数を表す66本のを卜部日良麿が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り薬師如来を本地とする牛頭天王を祀り御霊会を執り行った。この869年(貞観11年)の御霊会が祇園祭の起源とされており、2019年令和元年)には祭の1150周年を祝うほど、長い歴史を持っている。

御霊会が生まれた直接の背景は、平安京がもともとが内陸の湿地であったために高温多湿の地域であったこと、建都による人口の集中、上下水道の不備(汚水と飲料水の混合)などにより、瘧(わらわやみ=マラリア)、裳瘡(天然痘)、咳病(インフルエンザ)、赤痢、麻疹などが大流行したこと。その原因が、先に大水害により挫折した長岡京遷都工事中に起きた藤原種継暗殺事件で無実を訴えながら亡くなった早良親王ら6人の怨霊の仕業との陰陽師らによる権威ある卜占があったこと、などである。さらに、1世紀後の970年安和3年)からは毎年行うようになったとされる。これらの祭式は神仏混淆であるばかりでなく、陰陽道修験道の儀式も含まれていた。真夏の祭となったのは、上水道も冷蔵庫もなかった時代は、真夏に多くの感染症が流行し多くの人々が脱水症状等で亡くなったことが原因の一つと考えられる。

876年(貞観18年)には、播磨国広峯から牛頭天王が京都に遷座し、現在の八坂神社の地に落ち着いた。そこに祇園社として祭られ、感神院と号して比叡山延暦寺に属した。中世を通じて、祇園社は延暦寺の末寺とされ、山門(延暦寺)の洛中支配の拠点となった。比叡山の鎮守である日吉権現の山王祭が行われない時は、祇園御霊会も連動して中止・延期されることが多かった。
山鉾巡行の成立

祇園御霊会は、草創期から現代に至るまで、祇園社の神輿渡御を中心とするが、これに現在見られるような山鉾が伴うようになった時期は明確には分からない。鉾の古い形式は、現在も京都市東山区の粟田神社(感神院新宮・粟田天王宮)をはじめ、京都周辺から滋賀県にかけて分布する剣鉾に残っており、祇園御霊会の鉾もそれに類するものであったと推定される[4]

現在の山鉾巡行の原形は、鎌倉時代末期の『花園天皇宸記元亨元年7月24日1321年8月18日)条の記述から窺える。それによれば、鉾を取り巻く「鉾衆」の回りで「鼓打」たちが風流の舞曲を演じたというものである[5]。南北朝時代には、富裕な町人層が競って風流拍子物をくり出し、さらに室町将軍家が調進した「久世舞車」や大舎人座(現:西陣)が出した「鷺舞」など、さまざまな形の付祭の芸能が盛んになった[6]

室町時代に至り、四条室町を中心とする(旧)下京地区に商工業者(町衆)の自治組織両側町が成立すると、町ごとに趣向を凝らした山鉾を作って巡行させるようになった。それまで単独で巡行していた竿状の鉾と、羯鼓舞を演ずる稚児を乗せた屋台が合体して、現在見られるような鉾車が成立し、さらに主に猿楽能の演目を写した作り物の「山」が加わることによって、室町時代中期には洛中洛外図に見られるような、今日につながる山鉾巡行が成立したものと見られる[注釈 2]

応仁の乱による33年の中断を経て、1500年明応9年)、祇園会が再興された。明応年間に打ち続いた災異、ことに1498年(明応7年)の東海大地震・大津波による列島規模の大災害の発生が祭礼の復興を後押ししたものと見られる。復興にあたって室町幕府奉行衆松田豊前守頼亮が過去の山鉾について「古老の者」より聞き取りを行い、応仁の乱以前の60基(前祭32基、後祭28基)[7]の山鉾を知る唯一の史料とされている「祇園会山鉾事」(八坂神社文書)として書きとめたほか[8]、初めてのくじ取り式を頼亮私宅で行い[9]、町人主体の祭りとなるよう祇園執行に申し聞かせるなど、祇園祭の再興に尽力し、現在に続く山鉾の数と名称が固定した[注釈 3]。頼亮も自身の在職中に祇園祭が再興されたことは冥加であると記している[10][11]

1533年天文2年)、先述の理由による延暦寺側の訴えにより、祇園社の祭礼が中止に追い込まれたが、町衆は「神事これ無くとも山鉾渡したし(神社の行事がなくても、山鉾巡行だけは行いたい)」という声明を出し、山鉾行事が既に町衆が主体の祭となっていたことを窺わせる[12]。そして、天文法華一揆のさなか、延暦寺と結託した幕府の祇園会停止の命令に反して、(神事は中止されたものの)山鉾巡行は行われたという。町衆の自治的性格を象徴する話として特に有名である。
近世以降の祇園会の発展1920年代の祇園祭

江戸時代に発生した京都の三大火事によって、祇園祭も大きな被害を受けた。1708年宝永5年)の宝永の大火では、まだ山鉾も素朴な形式であったために復興が早かった。しかし1788年天明8年)の天明の大火の被害は大きく、函谷鉾は復興に50年を要した。その後の山鉾復興は、化政文化の波に乗り、山鉾の大型化、部品・懸装品の華美化が進み、曳山の多くも仮屋根から、鉾と変わりない千鳥破風をかけるようになった。しかし、鷹山は1826年文政9年)の巡行で大雨に遭って懸装品を破損したとして巡行に加列しなくなった。

幕末禁門の変によって発生した1864年元治元年)のどんどん焼けは、山鉾町に多大な被害をもたらし、ほぼ無事だったのは長刀鉾・函谷鉾・月鉾・岩戸山・霰天神山・伯牙山・保昌山だけであった。引き続いて明治維新の混乱期に入ったため、菊水鉾・大船鉾・綾傘鉾・蟷螂山・四条傘鉾は以後長い間断絶した。

明治維新以後、山鉾巡行を支えていた寄町制度が廃止され、行事の存続が危ぶまれる時期を乗り越えて復興した。巡行コースの度重なる変更や、第二次世界大戦の影響による中断(1943年昭和18年) - 1946年(昭和21年))はあったものの、戦後は菊水鉾を皮切りにして、中絶していた「休み山」(焼山)が1980年代に次々に復興した。高度経済成長期の交通事情の悪化により前祭・後祭を統合して合同巡行にした時期(1966年(昭和41年) - 2013年平成25年))を経て、2014年(平成26年)からは後祭も再開され、古式を保つ努力が続けられており、祇園御霊会としては1150年を超える歴史を誇る。

明治時代の祇園祭はコレラの歴史でもあり、1886年(明治19年)、1887年(明治20年)、1895年(明治28年)にコレラの影響による祇園祭の延期が確認されている[13]。また、コレラを克服して日本を衛生管理の行き届いた文明国家としてアピールするのは日本の急務であり、屎尿の運搬制限や飲食物の注意呼びかけなどコレラのために様々な対策が取られた[14]

室町時代以来、祇園祭のクライマックスは山鉾巡行であるが、現在では「巡行の前夜祭」である宵山に毎年40万人以上の人が集まるため、祇園祭といえば宵山を先に思い描く人も多い。

第二次世界大戦後、京都市の中心部もドーナツ化現象が進んだことにより、多くの山鉾町の居住者が減少し、山鉾行事の運営に支障が出た。そのため曳き手をアルバイトに頼ったり町内にある企業に応援を依頼することが増えた。その後町内にマンションが建った場合も、新しく転入した住民は「新住民」などと呼ばれ、以前は山鉾保存会に入会できなかった。1986年(昭和61年)以降、各山鉾町は順次新住民の保存会加入を認めるようになり、現在では新しく建つマンションの居住者に保存会加入を勧める所が多くなっている[15]。以前多かった呉服商などの減少とそのあとに多く建てられたマンションにより、多くの山鉾町が保存会会員不足から脱している。現在では、四条烏丸交差点に近い長刀鉾、函谷鉾の町内は居住人口がゼロで、孟宗山、鶏鉾の町内も人口が極めて少ないが、最も人口が多い蟷螂山町は相次ぐマンションの建築により、人口が約750人に達している。
第二次世界大戦後の祇園祭

1947年 長刀鉾と月鉾が戦後初めて建てられる。長刀鉾のみ四条寺町までの往復という形での戦後初の巡行を復活させる。

1948年 北観音山と船鉾が戦後初めて建てられ、四条寺町までの往復巡行を行う。

1949年 復活した山鉾が9基になり、戦後初めてくじ取り式を行う。鶏鉾・鯉山の懸装品が重要文化財指定。

1950年 山鉾が16基まで復活し、後祭巡行が戦後初めて行われる。


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