東映では社長(当時)・岡田茂による「大人向けの映画を作りたい[8][9][10]」という意欲からの新方針「アダルト路線」[11][12][9]が打ち出された。今日「アダルト」というとAVの急速な普及によって性的なニュアンスが含まれるが[13]、1980年代までは「アダルト」は一般に大人を示す語で[13]、成熟した大人の価値観と結び付けられ[13]、つまり「東映アダルト路線」は「大人の鑑賞に耐える映画」を意味していた[14]。
1980年代の東映は、角川映画やアニメ映画[15][12][16]と並び、この「アダルト路線」が柱となり、宮尾登美子や渡辺淳一原作の文芸作品を中心に、80年代を通じて概ね好調を維持していた[16][11][12]。本作はその「アダルト路線」の一作として企画された。
企画および題名は、岡田のアイデアによる[17][18][19]。「ショッキングなタイトルで迫力がある」と当時の映画誌に評された[11]。1987年6月の鶴田浩二の葬儀で葬儀委員長を務めた岡田が本作のアイデアを思いつき[17]、企画会議でプロデューサー・佐藤雅夫
らに『社葬の手引き』という8万部のベストセラーとなっているパンフレットを紹介。これを基にサラリーマン主役の面白い映画の発掘研究を指示した[18]。東映は1987年秋に松田寛夫に社葬をテーマにしたシナリオ研究を打診し[18]、1988年4月、岡田が正式に松田へ脚本執筆を依頼[17][18][19]。タイトルは当初から『社葬』と決まっており[18]、松田は同族会社の骨肉のドラマがイメージとしてすぐ頭に浮かび、書きやすいと感じたという[18]。脚本の松田と奈村協
・妹尾啓太両プロデューサーでチームが組まれ脚本が練られた。一方、舞台となる企業の事業内容に関しては絞り込みに時間がかかった[18]。奈村・妹尾は佐藤雅夫を加えて議論し、新聞社を選んだ[18]。新聞社にしたのは「誰でも知っている、お客さんに分かりやすい、同時に新聞社内の仕事ぶりなどが意外に知られていないし、情報化社会の中で大きな存在である新聞社の内部を如実に見せることが出来たら、お客サンから『ホホッ、そうか』と好奇心が満たされるだろう、一般大衆が一番知っているのは新聞社だろう」という理由から[18]。
新聞社の設定を松田に伝えたが、新聞社の舞台のドラマはテレビの事件記者ものに見られるようにスクープ合戦に全てを投げ打って突進するというワンパターンで、意外にホンが書き辛い素材だった[18]。そこでそれまで誰も取り上げていなかった新聞社の販売部門を背景にしたらどうかと松田が提案し[18]、主人公・鷲尾平吉の役職を編集畑でなく、取締役販売局長に設定した[18]。
大企業のトップにまつわる裏話を岡田社長から聞くなどして[19]、取材に半年かけた[18]。新聞関係は口が固く苦労したが、かなり際どい話を仕入れた[18]。毎日新聞社の社史と杉山隆男の著書『メディアの興亡』が特に参考になったという[17]。また、1987年に起きた秋田魁新報社のスキャンダル(秋田魁新報事件)を、主人公の人物像のヒントにした[17]。一方、葬儀社の方は「宣伝になる」として、協力的だった。
さらに聞いた話だけでは満足できなくなり、先の3名で某商社トップの社葬に無断で紛れ込んで取材を敢行した[17][19]。脚本の松田は必要な取材の10倍分が集まったと話している[18]。このため、シナリオ内容はすべて実話をモチーフにしたもの[19]となった。
自ら企画する岡田は心配のあまり、何度も脚本の再検討を指示し、さらに岡田自身が脚本を一つ一つチェックした[18]。
脚本がよくできていたため、のちに監督に起用される舛田利雄は渡された脚本をほとんど直していないと話している[2]。唯一、主人公と、主人公に協力する社長の息子の学歴を日本大学卒からそれぞれ定時制高校卒、高卒に変更し、たたき上げが出世するという設定に変えた[2]。これは日本大学から苦情が来たため[2]。 松田の脚本が上がった直後、企画製作部長の岡田裕介(のち、東映社長)が舛田利雄を監督に推挙した[2]。 取材の段階から主役は緒形拳でやりたいと候補に挙がっていた[18]。その緒形と料亭の女将役の十朱幸代は会社側が決め、この2人以外のキャスティングはすべて監督の舛田が決めた[2]。
監督・キャスティング