社会民主党_(日本_1996-)
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1980年代に入ると日本人の失踪者が北朝鮮に拉致されていたとの証言が相次いでいたが[31]、前身である社会党時代から北朝鮮による日本人拉致被害を長年にわたって否定し続けていた[31][32]。1987年の大韓航空機爆破テロについても「韓国の自作自演」と主張をしていた。所属議員らも北朝鮮の金日成・金正日親子を「素晴らしいリーダー」などと賞讃してきた[31]。2002年に行われた日朝首脳会談で北朝鮮国防委員長金正日は訪朝した小泉純一郎内閣総理大臣に拉致の事実を認めた[31]が、当時の社会党幹部は直後の「朝まで生テレビ」を全員出演辞退した[32]。2003年の衆議院総選挙では当時の党首土井たか子が「憲法を生かせるか、死なせるかを賭けた戦い」との言葉を繰り返したが、北朝鮮への社民党対応への世論の批判と辻元清美議員の秘書給与搾取による逮捕事件を受けて、選挙前勢力の18議席から6議席に激減の惨敗を喫する。土井自身も比例復活当選したものの、小選挙区での議席を失い、同年11月13日に党首を辞任した[29]。同年11月15日、福島瑞穂が党首に就任。これらの不祥事に加えて、2005年に衆院選で大敗した結果、当時の職員の3割ほどを配置転換ではなく、党の持論に反した整理解雇をしたことも致命的になった。民間企業のリストラや雇止めを批判しながらも、このような党職員への姿勢は、支持基盤である労働組合関係者からも強い批判を受けることとなった[32]

2009年に民社国連立政権に参加したが、普天間基地移設問題をめぐり福島大臣が罷免されたことを受け、2010年に離脱。連立離脱当時の社民の所属議員は12人で社会党時代の党勢は失ったものの、連立相手になれるレベルではあった。しかし、その後も議席を減らしていった。(2023年8月時点の同党国会議員は衆院1人、参院2人)[33]

2013年の参議院議員選挙では比例で1議席を獲得するに留まり、選挙結果を受けて党首の福島は引責辞任した。後任を巡る党首選挙では吉田忠智政審会長(参議院比例区)と石川大我豊島区議会議員が立候補し、吉田が選出された。

2018年、3期の任期満了で吉田は党首を退任し、後任には又市征治幹事長が無投票で選出された。

2020年、1期の任期満了で又市は党首を退任し、後任には福島副党首が無投票で選出された。

2020年には民主党の系譜上にある立憲民主党への合流を模索していることが明らかになったものの、国会議員4人中1人、地方組織などから慎重意見があった[34][35]。そのため、同年10月22日の常任理事会で国会議員や地方組織の離党を「容認」するかを議論した。本来なら他党への移動は処分対象行為であるが、立憲民主党へ合流すること、党残留者と立憲合流の離党者の双方が「理解し合う」ことを同年11月14日の臨時党大会で諮ることが僅差で可決された。離党しても処分しないことは合流反対派から批判が出たが、円満解決の方針が決まった[35]。2020年の立憲民主党との合流で党が分裂して以降、党員は約4割減、地方議員は半数以上が離党した。時事通信によると「地盤沈下」に歯止めがかからない状況となっている[36]

事実上の分裂後、初の大型国政選挙となる第49回衆議院議員総選挙では得票率が1.77%にとどまったほか、これまで必ず当選者が出ていた比例代表で議席を獲得できず、最終的な当選者数は小選挙区の1名のみであった。

2022年第26回参議院議員通常選挙では改選対象だった党首の福島1名のみが当選し、得票率は2.37%に達し政党要件を確保した。

2023年7月には韓国国会本館前でのデモ活動にて、「日本の国会議員も汚染水放流に反対している」ということに用いられるために大椿裕子社民党副党首が訪韓している。招聘してきた韓国左派政党共に民主党議員らと大椿副党首は「福島汚染水放流反対」を共に叫んだ。朝鮮日報は、韓国一般国民は社民党を「日本の有力政党」と誤認識しているものの、「(日本国会で)0.4%の議席しか持たない没落した政党」から学べることは連帯ではなく、「時代に逆行した政党の末路」と指摘している[31]。議員数のために衆院では単一会派は出来ない状態にあり、衆参で立憲民主党と会派を組んでいる。朝日新聞によると2023年10月には安保政策の違いを受け、立憲民主党からの「独立」のため、議席増加を目指している[37]
歴史1990年代の政党の離合集散
村山富市党首時代 (1996)
党名変更

1996年1月の日本社会党第64回大会での名称変更決定を受け、3月に第1回大会を開き結成された。初代党首は日本社会党の村山富市委員長が引き続き務め、幹事長には佐藤観樹が就任した。村山内閣総辞職により成立した第1次橋本内閣に引き続き与党として参加し、自社さ連立政権の枠組みを維持した。一方、党名変更と自社さ連立政権に批判的な左派勢力は、1月に離党し新社会党を結党した。

民主党への入党を拒否されなかった第一野党時代の日本社会党から所属していた横路孝弘や赤松広隆・輿石東・鉢呂吉雄など党内左派、佐藤観樹幹事長ら党内右派系およびの議員多数は個別の形で民主党へ参加した。新人当選者を含めた党所属国会議員の半数以上である35名が社民党から移籍をした。さきがけからは、民主党結党時点の27名内15名が旧・民主党に参加した。民主党は当時の両院現職国会議員57名で構成され、日本労働組合総連合会や旧社会党時代の支持母体のほとんどを獲得した。結党時の民主党は57名中旧社会党出身者が35名と党内過半数を占めていた。このように、社民党は総選挙を所属議員の過半数、支持母体など支持層の大半を失う中で、入党拒否された者、意図的に党に残った者だけで戦うことになった[30]
土井たか子党首時代 (1996-2003)
党勢縮小と自社さ連立政権離脱

総選挙に向けた立て直しの一環として、1996年9月28日、社会党時代に委員長を務めた土井たか子が党首に復帰する。社会党時代の支持基盤であった労働組合の大半が民主党支持に転じたため、土井党首は辻元清美市民運動出身者を積極的に立候補者に起用したが、第41回衆議院議員総選挙(10月20日投開票)では15議席しか獲得できなかった。この選挙で初当選した議員は「土井チルドレン」と呼ばれた。総選挙後は、閣外協力として引き続き連立政権第2次橋本内閣)に参加したが、1998年5月に連立政権から離脱した。

政権離脱後の1999年東京都知事選挙では旧社会党時代から唯一の都知事選における自主投票となった。第42回衆議院議員総選挙(2000年6月25日実施)では4議席増の19議席を確保したが、第19回参議院議員通常選挙(2001年7月19日実施)では小泉旋風の煽りをうけて得票・議席とも大幅に減らした。その結果、同年の第7回党大会で自社さ連立政権以来の旧幹部が退き、幹事長に福島瑞穂、政審会長に辻元清美など市民派が重要ポストに就いた。これ以後、自由民主党に対する対決姿勢が強まった。2000年(平成12年)から2003年(平成15年)にかけて女性議員の比率が増加して社民党の衆議院議員が男性9人で女性10人になり衆参の国会議員の男女比がほぼ同数になった。


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