礼記
[Wikipedia|▼Menu]
貞観年間に、太宗の命によって『五経正義』が選定された。この時、孔穎達らは鄭玄の『礼記』注に拠って『礼記正義』を編纂し、鄭注の地位が不動のものとなった。なお、この『礼記正義』は、南朝梁皇侃の疏を軸とし、北斉熊安生の学説を参考にして作られたものである。

この貞観年間には、魏徴が『礼類』を編纂した。これは、『礼記』の配列があまりに混乱しているため、配列を改編して系統的な書物として作り直そうとしたものである。このような動きは、の孫炎が試みたことがあった。魏徴の『礼類』は、玄宗の開元年間、当時著明な学者であった元行沖の注釈を加え、経に昇格される予定であったが、他の学者の反対にあい沙汰止みになった。
宋代

宋代でも礼の研究は盛んで、『礼記』研究も多くなされた。特質すべきは、宋明理学朱子学によって『大学』と『中庸』の2篇が『礼記』の中から取り出され、『論語』『孟子』とともに四書の一つに数えられるに至ったことである。

この頃作られた注釈書に衛G『礼記集説』などがある。
元代以降

元代も宋代に引き続き『礼記』の研究がなされたが、特に呉澄の『礼記纂言』は著明で、『礼記』の篇目を自在に改変して独自の読み方を提供した。また『礼記大全』の種本となった陳?の『礼記集説』も生れた。明朝は初期に『礼記大全』が編纂され、科挙のテキストとされた。

清朝考証学が勃興し、宋代以来の研究は廃除され、『礼記正義』や鄭玄の注釈が尊経されるようになった。この時期に著された多くの著書は、清朝以降も重んじられ、現在に至るまで重要な解釈テキストとなっている。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。大戴禮記
『礼記』の内容中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。禮記
全49篇の配列

『礼記』は、体系的な編纂物ではなく、雑多な内容が無秩序に並んでいる。これを体系的に捉えるため、鄭玄は『三礼目録』を作り、劉向の『別録』における各篇の分類に拠って、内容を以下のように分類した。

以下の表は、『礼記』全49篇を現行本『礼記正義』に従って配列し、そこに『三礼目録』に注記された劉向『別録』の分類を加え、内容の簡評を加えたものである。劉向の分類は、後世完全に承認されたわけではないが、最も古典的な分類方法として尊重されてきた。

全49篇の配列及び『三礼目録』による分類番号篇名分類『三礼目録』の簡評
1曲礼・上制度五礼(吉・凶・賓・軍・嘉)の総説。
2曲礼・下同上同上
3檀弓・上通論礼の総説。服喪に関することが多い。
4檀弓・下同上同上
5王制制度先王の政治制度(班爵・授禄・祭祀・養老)について論じたもの。
6月令明堂陰陽1年12月の年中行事と天文や暦について論じたもの
7曾子問喪服喪の変礼について論じたもの。
8文王世子世子法文王・武王・周公に関する逸事を論じたもの。
9礼運通論五帝・三王の道理や、礼の変遷・法則について論じたもの。
10礼器制度礼の規範的意義を説いたもの。「器」は規範の意味。
11郊特牲祭祀祭天における犠牲について論じたもの。
12内則子法家の内側の礼(儀則)について論じたもの。
13玉藻通論礼服の規定や礼儀作法について論じたもの。
14明堂位明堂陰陽明堂における諸侯の配列について論じたもの。
15喪服小記喪服喪服についての細かい規定を論じたもの。
16大伝通論祖宗・人親の大義について論じたもの。
17少儀制度やや重要性の少ない礼について論じたもの。
18学記通論学問について論じたもの。
19楽記楽記音楽理論について論じたもの。楽記は「がくき」と読む。
20雑記・上喪服諸侯から士までの喪礼を論じた雑駁な記録の意味。
21雑記・下同上同上
22喪大記喪服君臣以下の喪礼について、大事なものを論じたもの。
23祭法祭祀四代の祭祀について論じたもの。
24祭義祭祀祭祀の意義について論じたもの。
25祭統祭祀祭祀の根本について論じたもの。統は「本」の意味。
26経解通論六芸(六経)の得失について論じたもの。
27哀公問通論哀公と孔子との問答。礼についての論説。
28仲尼燕居通論孔子と弟子との問答。礼についての論説。
29孔子間居通論孔子と子夏との問答。君主の徳について論じたもの。
30坊記通論人が不義に陥ることを防ぐためのものとして、礼を論じたもの。
31中庸通論中庸の徳について論じたもの。
32表記通論君子の徳が人々の規範となって現われることについて論じたもの。
33緇衣通論政治的教訓(賢者を好むことなど)について論じたもの。
34奔喪喪服他国にいて喪を知り帰国するときの礼について論じたもの。
35問喪喪服喪中の礼について論じたもの。
36服問喪服喪服の変化と喪礼についての論じたもの。
37間伝喪服喪服の軽重、喪礼についての諸規則を論じたもの。
38三年問喪服喪服の年月(3年)について論じたもの。
39深衣制度深衣(普段着)について論じたもの。
40投壺吉礼投壺の礼について論じたもの。
41儒行通論哀公と孔子の問答。儒者のあるべき言動について論じたもの。
42大学通論学問と政治について論じたもの。
43冠義吉事冠礼(成人式の礼)について論じたもの。
44昏義吉事婚姻の礼について論じたもの。
45郷飲酒義吉事郷での飲酒(親睦会)の礼について論じたもの。
46射義吉事燕射・大射の礼の意義について論じたもの。
47燕義吉事君臣燕飲(宴会)の礼について論じたもの。
48聘義吉事諸侯間の聘問(訪問・見舞い)の礼について論じたもの。
49喪服四制喪服喪服の制を仁義礼智の四者に配当して論じたもの。

各篇の作者

全49篇各篇の作者が誰であるかは、古来問題とされてきた。いずれも推測であるが、著明なものを挙げると以下のようになる。

王制篇‐『史記』封禅書を根拠として、前漢の
文帝の時に博士に編纂させたもの。比較的有力な学説とされている。

月令篇‐秦の呂不韋が編纂させた『呂氏春秋』十二紀とほぼ同内容。『呂氏春秋』を引き写したものとされている。比較的有力な学説とされている。

楽記篇‐一説に前漢の武帝のときに河間献王が編纂させたといわれている。その他、公孫尼子、荀子などの説もある。

中庸篇‐『史記』孔子世家を根拠として、子思の作であるとされている。批判もあるが、定説とされている。

坊記篇‐子思の作とみなす学者もいる。

表記篇‐子思の作とみなす学者もいる。

緇衣篇‐公孫尼子の作ともいわれ、また子思の作ともいわれている。

三年問篇‐『荀子』礼論に重複部分がある。

大学篇朱熹は孔子(経)と曾子(伝十章)の作とする。長く定説とされてきたが、根拠はなく、現在では否定されている。

各篇の単行

『礼記』は礼に関する諸文献を集めたものであるため、書物として厳密な体系を備えているわけではない。そのため「喪服」篇や「中庸」篇などは、『礼記』本体とは別に、独立して読まれるようになった。『礼記』の各篇が単行書として取られたものには以下の礼がある。

王制篇‐宋代に独立した注釈が作られた

月令篇‐後漢時代から独立して扱われていた。最も有名なのは唐の
玄宗が作らせた『刊定礼記月令』である。

中庸篇‐『漢書』芸文志に『中庸説』が存在し、もともと独立的な性格を持っていた。宋(南朝)のときにも単行書として注釈され、以後も独立して扱われることが多かった。宋代にも多くの注釈が作られたが、特に朱熹が作った章句は四書の一つとして尊崇を集めた。以後、おびただしい注釈書が作られた。

大学篇‐程頤兄弟が単行書として扱い、朱熹が章句を作って四書の一つになった。以後、おびただしい注釈書が作られた。

深衣篇‐宋代以後、多くの研究が生れた。

注釈書

『礼記』に関する注釈書は、おびただしい分量に達する。『礼記』全篇にわたる注釈で、且つ著明なもののみを挙げると以下のものがある。

『礼記正義』‐ 後漢の
鄭玄の注、孔穎達などの疏。現存する『礼記』の注の中では、最も古いものである。『礼記』注釈の最高権威。『五経正義』『十三経注疏』の一つ。

『礼記集説』‐ 南宋の衛G(えいしょく)の撰。鄭玄以後、南宋末に至るまでの『礼記』の注釈を網羅的に集めたもの。現在失われた注釈書を多く含んでいる。後、清の杭世駿が『続礼記集説』を作り、衛Gの著書に続けた。

『礼記纂言』‐ 元の呉澄の著。独自の視点から『礼記』の配列を改変し、注釈を施したもの。

『礼記集説』‐ 元の陳?の著。衛Gのものと同名であるため、『陳氏礼記集説』などと呼ばれる。衛Gの『礼記集説』の中から重要なものを選び、まま自説を付したもの。また朱熹の章句が存在する「大学」と「中庸」の2篇は省略されている。納蘭性徳に『礼記集説補正』がある。

『礼記大全』‐ 明朝初期に『五経大全』の一つとして選定された。陳?の『礼記集説』を種本として作られた。科挙のテキストであったために著明であるが、清代以後、顧みるものは誰もいない。

『礼記集解』‐ の孫希旦の撰。簡略で要を得た注釈であるとされている。「清人十三経注疏」の一つに数えられる場合もある。

その他清代には、朱彬『礼記訓纂』などもあるが『礼記』全篇にわたる注釈は多くない。考証学による『礼記』注解の研究成果の多くは、阮元皇清経解』、王先謙『皇清経解続編』に収められた。
日本語訳

『礼記』は大部であり、全訳書は少ない。各々の訳書には解説が附されている。以下は書き下しまたは現代語による全訳書一覧を挙げた、抄訳版でも解説が充実している版は挙げている。

『礼記』(『漢文大系』、
冨山房、1913年、増訂版1984年)

桂湖村 『礼記』上下(『漢籍国字解全書』、早稲田大学出版部、1914年)

安井小太郎 『礼記』(『国訳漢文大成』、国民文庫刊行会、1921年)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:36 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef