キリスト教はユダヤ教とは明らかに異なった礼拝観を持っていた。イエスは旧約的な神殿礼拝を拒否してはおらず、祝日には自ら神殿に赴いたが、一方でより内面を重視した新しい礼拝観を示した。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。—イエス、新共同訳、「ヨハネによる福音書」4.21-24。
使徒時代のキリスト教徒であるステファノの次の言動には、このイエスの内面的な礼拝観がよく表れている。神のために家を建てたのはソロモンでした。けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。主は言われる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。お前たちは、わたしにどんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。これらはすべて、わたしの手が造ったものではないか。」—新共同訳、「使徒行伝」7.47-50。
彼はエルサレムの神殿に直結したユダヤ教祭祀を否定し、イエスの述べた新しい礼拝を強く主張したために、殉教した[5]。
初期のキリスト教会が外形的な表現を重視しなかったわけではない。集会堂としての教会は典礼の中心となったし、洗礼はキリスト教共同体としての「教会」への加入を視覚的に表現した。しかし2世紀後半から3世紀にかけてのキリスト教著述家ミヌキウス・フェリクスは「私たちには、神殿も祭壇もない」ということを異教徒に対して誇った。教会は集会する場所であり、祭儀は建物としての教会堂に帰するのではなく、信徒共同体としての教会それ自体に帰するのである。初期キリスト教ではイエスこそが「祭司」であり「大祭司」で、そのキリストに繋がれているという意味で、教会が「祭司」なのであった[6]。
このような内面性の強いキリスト教の性格はローマ帝国で行われたいわゆる「皇帝礼拝」と相容れざるもので、帝国は公共祭祀である「皇帝礼拝」を受け入れないキリスト教徒を、公共の宗教からの逸脱者、国家離反者として迫害したという説が歴史学者の間で長く論じられてきた。とくに自らを「主にして神」と称したドミティアヌスがこのような皇帝礼拝の要求者とされ、彼の治下に激しいユダヤ教徒やキリスト教徒の迫害が起こったと考えられた。しかし、この迫害の史料は2世紀以降の伝承に基づくもので、迫害は無かったとする見方もある[7]。
迫害と皇帝礼拝は因果づけて考えられ、間接的には古代教会が日曜日を「主の日」として制定したことも、皇帝礼拝に対抗するキリスト教徒の信仰告白であったという見方もある[8]。また「ヨハネの黙示録」の「第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。」[9]という記述もある。しかし、保坂高殿によれば「皇帝礼拝」という名での祭儀は多様であり、内容においては極めて政治的な意味を持つものから宗教性の高いものまで、範囲においても都市国家規模から属州単位のもの、担い手も一様でなく、それらを統一的に「皇帝礼拝」という一語で把握することには飛躍が伴うことが示されている。黙示録の記述についても正確な史実を反映したものではなく、ドミティアヌス統治期に皇帝礼拝拒否が法廷での処刑につながったという見方は困難とする[10]。
イスラム教の礼拝詳細は「サラート」を参照
礼拝(サラーもしくはサラート)とは、カアバの方角へ向かってお祈りすることで、イスラム教の五行のひとつである。
礼拝の方法には一定の決まりがある。普段は家庭などで個人で行ってもいいが、イスラムの祝日である金曜日には、5回のうち、1回のお昼の礼拝は、モスクに集まってみんなで行うことが奨励される。
イスラム教では1日5回の礼拝を行う。各礼拝の大体の時間帯は、1回目は夜明け、2回目は夜明け以降、3回目は影が自分の身長と同じになるまで(お昼)、4回目は日没から日がなくなるまで、最後は夜となっている。礼拝が始まる時間はムアッジンと呼ばれる人によって告げられるが、これをアザーンという。昔はモスクの尖塔(ミナレット)に上りその上からアザーンが行われたが、現在はスピーカーが取り付けられている。
脚注^ 現代のギリシャ正教会でも使われる言葉であるため、読みの片仮名転写は現代ギリシャ語に準拠。古典ギリシャ語では「ラトレイア」。
^ 現代ギリシャ語からの転写。古典ギリシャ語では「プロスキュネーシス」。
^ 上智大学中世思想研究所、“中世思想原典集成3 後期ギリシャ教父・ビザンティン思想”、平凡社、1994年。