堀部武庸は礒貝について「源助橋(現・新橋四丁目)辺に酒見世(みせ)を出し不通(ふつう)に人に出合ず、町人の体に成りける。余りの事に大笑い致しける。不様(ぶざま)に御当地の者共腰ぬけ候ては、本意を遂げ難く候」と糾弾し嘲笑している[4]。ともに討ち入る同志と決まってからも磯貝を見直したような記述は見られない。
また、細川家で義士の世話をした堀内は「手跡はかな混じりの歌を書いたものはそれ程上手とはいえない」と磯貝の字を批評している。その真筆の辞世は不明。 提出された「親類書」によると磯貝に妻子はいない。母は赤穂事件後に頓死した。墓所は正久とは別で青久寺。兄二人は磯貝姓を捨てており連座を免れている。 『忠臣蔵』の芝居・物語では美男であったとの脚色がなされ、吉良家の女中に近づき内情を探ったという。小説において豆腐屋の娘や、瑤泉院の侍女と関係があった話は全てフィクションで史実ではない。 また、講談では山鹿流の達人だった小林央通とは碁敵となっていて、石を打ちながら腹の探り合いで鎬を削る[6]。討ち入りでは夜中だったため屋敷内は暗く浪士たちの進退は自由でなかったが、正久が機転を働かせて吉良家の台所役を脅して蝋燭を出させ、それを各室に立てて屋敷内を灯した。或いは、吉良家の侍女がおはちを被って震えていたので、蝋燭に火をつけ箸に刺すように脅し、壁際に立てさせたあとで斬り殺した[7]。後の取調べで、江戸幕府大目付・仙石久尚はその機転を大いに褒めたという話もある[8]。 史実の仙石久尚は、赤穂義士の扱いにつき水野忠之と松平定直からの問い合わせに対し、罪人として厳しい対応をとるよう返答した記録が両家に残っている[9][10]。細川家についても寒がっている義士に暖房具を出さないように命じている[11]。 映画では、正久は幼少より能や太鼓に秀でていたが、主君の長矩が太鼓や琴を嫌い芸事を好まないことを知りやめている。しかし、琴だけはひそかに続けており、切腹後の遺品に琴の爪があったとされる[12]。
後史
遺品
脇差 国宗二尺大小鞘黒塗大[5] - 熊本藩に伝承も細川重賢が投棄し散佚。
創作
脚注^ 「細川家にて毎夜楽酒。某相手(内蔵助)は惣右衛門、十郎左衛門らなり」(『赤穂義士実話』)
^ 堀内伝右衛門は自身の代で士分になった出来星なので、能や狂言の教養はない。
^ 細川家文書「堀内伝右衛門覚書」
^ 『堀部武庸日記』
^ 「黒塗りの鞘こい口二三寸朱にて筋違いにぬりこれ有り候。」(同じく堀内覚書)
^ 山鹿素行は「仇討ちは、正々堂々と昼間の明るい時に衆人環視のもとですべし」と主張している。(『山鹿語類』、巻二十九)
^ 課外読本『赤穂義士物語』一五九(昭和2年、野口鶴)
^ 講談「義士銘々伝 磯貝十郎左衛門」(若林鶴雲など)
^ 岡崎藩『水野家御預記録』
^ 久松松平家文書「波賀清太夫覚書」
^ 「火鉢煙草盆など暖諸用具相渡すべく伺い出も有りしが、御指圖破れざるに付き見合せと取り計べし」(『肥後熊本藩 細川家記』)
^ 「元禄忠臣蔵 大石最後の一日」より 琴の爪
関連項目
赤穂藩
大石神社
大石寺
忠臣蔵の恋?四十八人目の忠臣? - 諸田玲子の小説『四十八人目の忠臣』のドラマ化。架空の人物きよと正久が恋仲。
表
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