磯光雄
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巨大兵器としてのモビルスーツ[注釈 2]の恐ろしさを、見上げるようなカメラアングルや作画、エフェクトで表現し、これに加えて爆風や空気抵抗による2次的な影響まで描写した[7][10][11]。特に画面内に起きうることを想像して積み重ねる作画思想は、後のリアル系作画に大きな影響を与えた[10]。また、この作品では「磯爆発」と呼ばれ、以降広まっていく爆発エフェクトが顕著に見られる[注釈 3][6]。監督の高山文彦とメインデザイナーの出渕裕からは初めてデザインをする機会を与えられ[注釈 4]、メカや軍の個人装備の一部を担当した[注釈 5][12]

1989年のOVA『EXPLORER WOMAN RAY』に匿名で参加[13]。『ポケットの中の戦争』第1話を見たAICに誘われ、第4話制作までの間に参加した[4]。この頃は座円洞を離れてスタジオ絵夢に籍を置いていた[13]

1990?92年頃、スタジオジブリに籍を置く[14][15]。テレビスペシャル『雲のように風のように』(1990年)での仕事を見たジブリの宮崎駿から直接スカウトされたという[16]。ジブリ作品では、宮崎がプロデューサーを務め高畑勲が監督した『おもひでぽろぽろ』(1991年)、宮崎が監督した『紅の豚』(1992年)、そして若手中心の『海がきこえる』(1993年)で原画を担当した。初めて関わった『おもひでぽろぽろ』では、主に主人公・タエ子の子供時代の原画を担当した[注釈 6][8][12]

1991年公開の大友克洋原作の映画『老人Z』で、監督を務めた北久保弘之から抜擢される形でメカニック作画監督に誘われる[16][17]。しかし、同年公開の『おもひでぽろぽろ』に参加するためにシナリオ段階で抜けたため、作画などの実制作には携わっていない[16]。そして『おもひでぽろぽろ』制作中に北久保からの依頼を受けて追加デザインを担当したが、結局、部分的なデザインという形でしか参加できなかった[16][17]

1993?94年頃、マッドハウスのOVA『ファイナルファンタジー』(1994年)の仕事のために上海に4ヶ月ほど住んでいた[18][19]

1995年、大友克洋が製作総指揮と総監督を務めたオムニバスアニメ映画『MEMORIES』(1995年)に参加。


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