磯光雄
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ジブリ作品では、宮崎がプロデューサーを務め高畑勲が監督した『おもひでぽろぽろ』(1991年)、宮崎が監督した『紅の豚』(1992年)、そして若手中心の『海がきこえる』(1993年)で原画を担当した。初めて関わった『おもひでぽろぽろ』では、主に主人公・タエ子の子供時代の原画を担当した[注釈 6][8][12]

1991年公開の大友克洋原作の映画『老人Z』で、監督を務めた北久保弘之から抜擢される形でメカニック作画監督に誘われる[16][17]。しかし、同年公開の『おもひでぽろぽろ』に参加するためにシナリオ段階で抜けたため、作画などの実制作には携わっていない[16]。そして『おもひでぽろぽろ』制作中に北久保からの依頼を受けて追加デザインを担当したが、結局、部分的なデザインという形でしか参加できなかった[16][17]

1993?94年頃、マッドハウスのOVA『ファイナルファンタジー』(1994年)の仕事のために上海に4ヶ月ほど住んでいた[18][19]

1995年、大友克洋が製作総指揮と総監督を務めたオムニバスアニメ映画『MEMORIES』(1995年)に参加。ジブリを辞めた後に知り合った森本晃司からSTUDIO 4℃経由で連絡が来て、森本が監督するEpisode. 1「彼女の想いで」小道具を担当した[20]。また森本の『音響生命体ノイズマン』(1997年)の企画打ち合わせにも参加した[21]

新世紀エヴァンゲリオン』のテレビシリーズ(1995?1996年)および旧劇場版(1997年)に参加[1]。アニメーターとしての代表的な仕事の一つで、テレビシリーズでは各話の原画を描いたほか、脚本設定、デザインも手掛けた[22]。また企画段階初期から参加することが出来た数少ない作品であり、脚本などの名前をクレジットされている仕事以外にも、シリーズ構成や作品全体に関わる設定の数々など、多岐に渡ってアイデアを提供している[22][23][24]

最初はアニメーターとして声を掛けられたが、それ以外の仕事にも自ら積極的に食い込んで行き[注釈 7]、様々な役職で作品全般に関わった[23][24]。初作画打ち合わせの後すぐに脚本や絵コンテを読ませてもらい、色々意見を言いつつ自身の脚本を監督の庵野秀明にアピールして採用された[26]。その時点では、中盤以降は各話のサブタイトル以外ほとんど何も決まっていなかったので、庵野の許可を得て様々なアイデアやストーリー展開を考えた[27]。具体的には、第19話「男の戦い」に至るまでの後半の主人公シンジの心の動きとそれにまつわる様々な展開、そのあとから最終話までの展開[注釈 8]などである[30]。クレジットされていないものの、脚本担当話以外に後半第19話までのストーリーライン[注釈 9]、第21話「ネルフ、誕生」と第24話「最後のシ者」のプロット[注釈 10]エヴァンゲリオンと戦略自衛隊の戦い[注釈 11]、そして各話の細かなアイデアなどが採用された[32]

アニメーターとしては、テレビシリーズの第1話「使徒、襲来」の使徒[注釈 12]国連軍との市街戦とシンジとミサトの出会いのシーンや、第19話の覚醒したエヴァ初号機が使徒を捕食するシーン、旧劇場版のアスカのエヴァ弐号機とエヴァ量産機のアクションシーン[注釈 13]といった有名なシーンの原画を担当している[35][24]


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