磯光雄
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テレビシリーズに参加していた流れでサンライズ制作デスクの高森宏治から原画に誘われて会社を通さずに小田川幹雄の名義で参加、その後メカ作監も担当することになった[4]。さらに高森から人手不足なので所属スタジオを紹介して欲しいと頼まれたため、彼自身が座円洞の社長に話を持って行った[4][5]。その結果、ペンネームの小田川幹雄(作画監督と原画)と本名の磯光雄(原画)の両方の名前でクレジットされることになった[4][5]

1989年発売のOVA機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』で原画を担当し[注釈 1]、アニメ業界関係者やファンにその存在を強く印象付けた[6][7][8][9]。巨大兵器としてのモビルスーツ[注釈 2]の恐ろしさを、見上げるようなカメラアングルや作画、エフェクトで表現し、これに加えて爆風や空気抵抗による2次的な影響まで描写した[7][10][11]。特に画面内に起きうることを想像して積み重ねる作画思想は、後のリアル系作画に大きな影響を与えた[10]。また、この作品では「磯爆発」と呼ばれ、以降広まっていく爆発エフェクトが顕著に見られる[注釈 3][6]。監督の高山文彦とメインデザイナーの出渕裕からは初めてデザインをする機会を与えられ[注釈 4]、メカや軍の個人装備の一部を担当した[注釈 5][12]

1989年のOVA『EXPLORER WOMAN RAY』に匿名で参加[13]。『ポケットの中の戦争』第1話を見たAICに誘われ、第4話制作までの間に参加した[4]。この頃は座円洞を離れてスタジオ絵夢に籍を置いていた[13]

1990?92年頃、スタジオジブリに籍を置く[14][15]。テレビスペシャル『雲のように風のように』(1990年)での仕事を見たジブリの宮崎駿から直接スカウトされたという[16]。ジブリ作品では、宮崎がプロデューサーを務め高畑勲が監督した『おもひでぽろぽろ』(1991年)、宮崎が監督した『紅の豚』(1992年)、そして若手中心の『海がきこえる』(1993年)で原画を担当した。初めて関わった『おもひでぽろぽろ』では、主に主人公・タエ子の子供時代の原画を担当した[注釈 6][8][12]


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