磁気コアメモリ
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磁気コアメモリにおいて最もコストがかかったのは、フェライトコアにワイヤーを張る人件費である。フォレスターの発明した電流一致システムでは、ワイヤの1つをコアに対して45度で走らせる必要があったが、これは機械によるワイヤリングが難しかったため、人間が顕微鏡を見ながら精密なモーター制御を行ってコアの配列を編み上げる必要があった。そのため1950年代後半には、極東でコアメモリ製造工場ができており、例えば東京電気化学工業(現・TDK)の市川工場(東京電気化学工業株式会社電子事業部、現・TDKテクニカルセンター)が1956年に設立されている。日立製作所茂原工場(現・ジャパンディスプレイ)におけるコアメモリの生産開始時期は不明である。工員の多くは「手先が器用」とされた女性で、当初は縫製工が雇われたが、1956年に東京通信工業(現・ソニー)が工員募集の際に「女工」の代わりに使った「トランジスタ娘」のキャッチコピーが話題となったため、それまでの紡績メーカーに代わって電子機器メーカーの工員が女性の花形職業となった。数百人の労働者が一日数セントの賃金でコアメモリを組み立てていた。これによってコアメモリの価格が低くなり、1960年代初めには主記憶装置として広く使われるようになり、低価格/低性能の磁気ドラムメモリも高価格/高性能の静電記憶管(ウィリアムス管など)も使われなくなっていった。「コアメモリプレーン」として1枚だけで使われることもあった(平面実装方式)が、「コアメモリスタック」として何枚も積み重ねて大容量化を図った製品もあった。例えば8K*8Kのプレーンを64枚スタックした3D方式のコアメモリの場合、1スタックで8K*8K*64 = 4096Kの大容量を扱えることになる。ただし、「スタック」の形式をとると発熱や価格などの問題があるため、特にコアメモリの実装密度が向上した1970年代以降は、一般的な計算機ではコアをスタックするよりも平面展開してプレーン1枚だけで使われることが多かった。磁気コアメモリの4×4のプレーンの模式図。 縦横の「X」と「Y」がそれぞれ「X線」および「Y線」で、この2つは電流を流してコアを励磁する駆動線である。「S」が磁化方向を読み取るセンス線(探査線)で、もし目当てのコアが磁化反転した場合に電流が流れる。「Z」がインヒビット線(禁止線)で、読み込み電流を流したくない場合や書き戻し電流を流したくない場合(「0」を書き込みたい場合)に妨害電流を流す。

コストを抑えるため、半自動化に向けての技術革新が続いた。1956年にIBMのグループが、最初の数本のワイヤーを各コアに自動的に通す装置の特許を申請した。この装置はフェライトコアの平面部分を「ネスト」状に保持し、さらにその後、中空の針の配列をコアに突き通して、ワイヤーを編組む際のガイドとするものである。この装置を使用することで、128 x 128コア(16,384bit)の配列においてX線とY線(縦横のワイヤー)を編組むのにかかっていた時間が、それまでの25時間から12分に短縮された[4][5]。フェライトコアが微細化するに従って、中空の針を使う方式は役に立たなくなってしまった物の、代わりにガイド用の通路が付いた補助ネストが開発された。フェライトコアを「patch」ごとに裏材に接着するようになり、編組時や使用時に便利になった。メモリプレーンを編組するための針をワイヤーに突合せ溶接することで、針の径はワイヤーの径と同じになり、(特許の出願はDRAMの普及より後になるが)針自体を無くすための発明もなされた[6][7]。オートメーション化において重要だったのが、インヒビット線(禁止線)とセンス線(探査線)の編組方式の改良で、これによりセンス線を斜め方向に長々と伸ばす必要が無くなり、また各ブロックにおいてフェライトコアをより密接に配置することも可能となった[8][9]

磁気コアメモリの製造が自動化されることはなかったが、その価格はほぼムーアの法則に従った推移を示した。最初のころビット当たり1ドル程度だった価格は、最後にはビット当たり0.01ドルになっている。フェライトコアも1950年代には直径0.1インチ(2.5 mm)だったものが、1966年には0.013インチ(0.33 mm)にまで微細化。1967年には台湾でも高雄日立(現・高雄晶傑達光電科技)が設立されてコアメモリの生産を開始する。日本や台湾など極東の人件費の安い国の工場で大量の女工を投入して人の手で編組みするという、典型的な労働集約型の製造方法を取っていた。Intel 1103(1970年)。世界初のDRAMで、磁気コアメモリを置き換える形で普及した

その後磁気コアメモリは 1970年代初めにシリコン半導体のメモリチップ (RAM) に置き換えられていった。特に半導体ベンチャー企業(1968年創業)のIntel社が1970年に発売した世界初のDRAM、Intel 1103(容量1,024bit)は、磁気コアメモリと同等以上の集積度を実現しており、またその1ビット1セントを下回る低価格性もあって(Intelは1969年に容量256bitのSRAMであるIntel 1101を発売していたが、高価だったので磁気コアメモリを置き換えることができなかった)、この発売以後、メインフレームにおいて磁気コアメモリからDRAMへの置き換えが急速に進んだ。Intel社の創業当時のロゴ(通称:ドロップドイー)は、下に下がった「e」がコアメモリを齧る様子を表しており、DRAMはその低コスト性、信頼性、省スペース性によって、文字通りコアメモリのシェアを食う形で普及していった。インテルミュージアム(Intelを記念するカリフォルニアの博物館で、磁気コアメモリも展示されている)の説明によると、1972年にIntel 1103 DRAMのシェアが磁気コアメモリのシェアを上回ったという。1973年から1978年にかけて、末期には生産されるコアメモリのほとんどが保守用パーツだったが、次第に市場が縮小していった。

磁気コアメモリは、磁気をスイッチや増幅に使用する様々な技術のひとつである。1950年代、ウィリアムス管に代表される真空管メモリは先端技術であったが、その材質は壊れやすく、発熱と電力消費が大きく、不安定であった。磁気デバイスはトランジスタなどの半導体デバイスと同様の利点を持っていて、軍事利用された例が多い。
特許問題

ワング博士の出願した特許は1955年にようやく認められたが、そのころには既に磁気コアメモリが使われていた。そのため長い訴訟問題となったが、1956年にIBMがワングに数百万ドルを支払って特許権を買い取ることで解決した。ワングはこれを資金としてワング・ラボラトリーズの規模を拡大させた。なおワングはこの時の因縁からIBMに対抗意識を燃やし、電卓、ワープロ機、そしてミニコン市場に進出。全盛期となる1980年代初頭にはアメリカのOA機器市場でIBMを上回る市場シェアを誇ったが、IBMが1980年代にはパソコンに力を入れたのとは対照的に、ワングはワープロ機やミニコンなどの独自システムの展開に固執したため、1980年代後半にはアメリカのオフィスにあったワングのOA機器はIBM社のパソコンに置き換えられ、1992年に倒産した。


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