1895年、離婚して自立のために文京区本郷にある帝国大学付属看護婦養成所に入所した。6期生で定員は40名。同級生は上級武士の娘などが多かった[6]。当時の外科病棟は1等室が1人部屋で6床、2等室は4人部屋で16床、3等室は12人部屋で48床。教授陣はエルヴィン・フォン・ベルツ、ユリウス・スクリバなど充実し、解剖もあった。幼児を育てるのに苦労があった。在学中、海老名弾正により受洗した。[7]2年後優秀な成績で卒業し、内科学の三浦謹之助の直接看護婦を勤めた。[8]当時は富裕層の家庭へ訪問看護もあり、三浦教授から習ったドイツ式のマッサージが役に立った。北海道から東京に帰っても訪問看護があったが、料亭「富貴楼」、三菱の「岩崎邸」、古河邸、細川護立の細川侯爵邸などにもいった。1913年、1915年の記載に訪問看護で生活を支えるとある。[9]
碧川かた家族・親族と家族関係図
平田篤胤 家族関係図によると、碧川家と関係がある。
碧川企救男
三木露風
碧川道夫
内田吐夢
碧川清 かたの末子で我が国最初の重症心身障害児施設・島田療育園の総婦長を勤めた。[5]
家族関係図
「碧川道夫」を参照
参考文献
『カメラマンの映画史 碧川道夫の歩んだ道』 山口猛編 1987年 社会思想社 12-13頁
『鐘は既に鳴れり 碧川かたとその時代 上』 2012年 角秋勝治 角秋勝治 ISBN 978-4-924695-01-6
『鐘は既に鳴れり 碧川かたとその時代 下』 2013年 角秋勝治 角秋勝治 ISBN 978-4-924695-02-3
『日本近現代 医学人名事典』2012年 泉孝英 医学書院 ISBN 978-4-260-00589-0
脚注^ 1870年説、1872年説もあると書かれているが文献を引用していない 角秋[2013]
^ a b 泉[2012:593]は1869年としている
^ 角秋[2013:746-762]
^ 角秋[2012:12]
^ a b 泉[2012:593]
^ 角秋[2012:80]
^ 角秋[2012:87]
^ 角秋[2012:94]
^ 角秋[2012:165]
外部リンク
⇒郷土の先人豆知識/シリーズ草の根自治/とりネット/鳥取県公式
⇒■2006.08.04 女性の自立と権利の獲得を目指した「碧川かた」
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