碓氷峠
[Wikipedia|▼Menu]
浅間山との違いとしては、ムラサキシモツケソウモウセンゴケが多いことが挙げられる[6]

一帯には古くからニホンザルが生息しているが、1980年代から人里に降りてきて農作物などに被害が出るようになり、1984年には碓氷郡松井田町(当時)など3町で計2000万円以上もの被害があった。その原因としては

林野庁ナラクリなどの広葉樹スギなどの針葉樹に代えたため、餌となる木の実が減少した

観光客らが餌を与えるようになって人に馴れた

などが指摘されている[7]。上信越自動車道の開通後は交通量の減った国道18号への出没も増え[8]1990年代末以降は碓氷峠を拠点に軽井沢の中心部にも出現している[9]

2010年代になるとツキノワグマの目撃情報も相次いでおり、旧道での目撃例や[10]、めがね橋(碓氷第三橋梁)の近くでの目撃例がある[11]

刎石山付近には柱状節理風穴などがみられる。
歴史碓氷峠の変遷
中仙道・中仙道和宮道・国道18号・信越本線・碓氷バイパス・上信越自動車道・北陸新幹線
古代

古来から坂東と信濃国をつなぐ道として使われてきたが、難所としても有名であった。この碓氷坂および駿河相模国境の足柄坂より東の地域を坂東と呼んだ。『日本書紀』景行紀には、日本武尊(ヤマトタケル)が坂東平定から帰還する際に碓氷坂(碓日坂)にて、安房沖で入水した妻の弟橘媛をしのんで「吾妻(あづま)はや」とうたったとある。なお『古事記』ではこれが足柄坂だったとされ、どちらが正しいかという論争が存在する[12]。現在でも碓氷峠を境にして、東側が関東文化圏・関東方言に、西側が中央高地文化圏・東海東山方言に分かれている。

碓氷峠の範囲は南北に広いが、その南端に当たる入山峠からは古墳時代の祭祀遺跡が発見されており(入山遺跡)、古墳時代当時の古東山道は入山峠を通ったと推定されている。7世紀後葉から8世紀前葉(飛鳥時代後期 - 奈良時代初期)にかけて、全国的な幹線道路(駅路)が整備されると、碓氷坂にも東山道駅路が建設された。入山遺跡はこの時期までに廃絶しており、碓氷坂における東山道駅路は近世の中仙道にほぼ近いルートだったとする説が有力視されている。なお、万葉集にみえるように防人たちにとっては故郷との別離の場となっていた[13]

平安時代前期から中期頃の坂東では、武装した富豪百姓層(?馬の党)が国家支配に抵抗し、国家への進納物を横領したり略奪する動きが活発化した。これら富豪百姓層を「群盗」と見なした国家は、その取締りのため昌泰2年(899年)に碓氷坂と足柄坂へ関所を設置した。これが碓氷関の初見である。碓氷関は天慶3年(940年)に廃止され、中世に何度か復活した[14]

古代駅路は全国的に11世紀初頭頃までに廃絶しており、碓氷坂における東山道駅路も同時期に荒廃したとされている。その後、碓氷峠における主要交通路は、旧碓氷峠ルートのほか、入山峠ルート・鰐坂峠ルートなどを通過したと考えられているが、どのルートが主たるものであったかは確定に至っていない。
中世

中世には碓氷峠付近の主要道は現在の大字峠(地図中の旧碓氷峠)を通るようになった。この峠には熊野皇大神社(碓氷峠熊野神社)があり、同神社正応5年4月8日(1292年5月3日)紀の鐘銘から、この頃までには大字峠の道が開設されていたといわれる。入山峠を通る古道よりも坂本付近などが峻険で通りにくかったが、そのため防備に優れていたとされる[15]

応永30年(1423年)の国人一揆永享12年(1440年)の結城合戦では、碓氷峠は信州からの侵攻を防ぐ要衝となっていた。永禄4年(1561年)に長尾景虎小田原城後北条氏を攻めた際に武田信玄が笛吹峠に出陣し、信玄は碓氷峠からの進出をその後数回にわたって行ない、永禄9年(1566年)には箕輪城の攻略に成功して上野国へ進出した。天正18年(1590年)の小田原征伐の際、豊臣秀吉前田利家らの北国勢を碓氷峠から進軍させている[15]旧碓氷峠(長野県北佐久郡軽井沢町大字峠町)
近世

江戸時代には中山道五街道のひとつとして整備され、旧碓氷峠ルートが本道とされた。碓氷峠は、関東信濃国北陸とを結ぶ要衝と位置づけられ、峠の江戸側に関所(坂本関)が置かれて厳しい取締りが行われた[16]。峠の前後には坂本宿軽井沢宿が置かれ、両宿場間の距離は2里26町(約10キロメートル〈km〉余)であったが、峠頂部の熊野神社の標高が1200 m、坂本宿の京都口が標高460 mであるから、その標高差は740 mもあり通行者の大きな負担になっている[16]。特に刎石(はねいし)はつづら折れの急坂のうえ落石も多く、峠道最大の難所である[16]。なお、坂本から熊野神社までの旧中山道ルートの現在は、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された日本の道100選のひとつとして1986年(昭和61年)に選定を受けている[17]

ただし、古道はその後も活用されており、たとえば難所の碓氷峠を避けることができる鰐坂峠ルートは「姫街道」「女街道」と呼ばれていた。この道は本庄で中山道本道から分かれて藤岡富岡下仁田を経由し、鰐坂峠(和美峠付近)を経て信州に入り、追分宿付近で本道と合流していた。しかし、こちらも難所であることに差はなかったといい、本道と同様に西牧関所が置かれていた。

天明3年(1783年)の浅間山噴火では3尺 (90センチメートル) 以上の砂が積り、碓氷峠往還は8日間にわたって通行不可能になっている[15]。碓氷峠は中山道有数の難所であったため、幕末の文久元年(1861年)に和宮徳川家茂に嫁ぐために中山道を通ることが決まった際に一部区間で大工事が行われ、和宮道と呼ばれる多少平易な別ルートが開拓された。なお、約3万人の和宮一行は同年11月9日(1861年12月10日)に軽井沢を発って碓氷峠を越え、翌10日(1861年12月11日)に横川に宿泊している[18]
道路
道路の建設

明治に入っても交通の要所としての重要性は変わらず、人々や物資の往来は続いた。1878年9月11日、明治天皇の北陸道・東海道巡幸では、天皇は徒歩にて峠を通過している。明治天皇紀によれば、「峠の険難は馬すらも通はず・・・」とあり[19]、この時期においても難所であることには変わらなかった。1882年に従来の南側に新道が作られ、1886年には馬や車での通行が可能となった。「碓氷新道」と呼ばれたこの新道は国道18号(の旧道)にあたり、坂本宿からその後碓氷湖が作られたあたりまではおおむね和宮道(正しくは、(明治天皇)御巡幸道路であり、和宮道は、熊野神社北側から子持山の南西あたりまでをいう)を踏襲し、そこから西側は中尾川に沿って全く新しいルートとされ、軽井沢宿と沓掛宿の間で旧道と合流するものであった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:111 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef