アメリカ軍のサウジアラビア国内への展開は、宗教的問題からサウジアラビア側が躊躇すると予測されていたのに対して、実際には、8月6日にチェイニー国防長官・中央軍司令官シュワルツコフ大将から説明を受けたファハド国王の決断によって即座に了承されたことで、8月7日(アメリカ東部標準時)にはアメリカ陸海空軍の指定された部隊に対して湾岸地域への展開命令が発令され、砂漠の盾作戦が発動された[8]。
まず派遣命令を受けたのが、F-15戦闘機の2個飛行隊、早期警戒管制機部隊、2個空母戦闘群、2個海上事前集積船隊及び第82空挺師団の1個即応旅団であった[8]。航空戦力においては、まず8日に第552空中警戒指揮航空団のE-3早期警戒管制機5機がリヤド基地に着陸したのを皮切りに、順次に作戦機の展開が進められた[9]。また陸上戦力を担う第82空挺師団も、既に6日21時(EST)の時点で非常呼集が発令され、即応旅団であった第2旅団は出発準備を完了しており、9日には先遣隊が、旅団全体も14日までにサウジアラビアへの展開を完了した[10]。
その後も、アメリカを含む西側諸国やアラブ諸国は同国に陸軍及び空軍の部隊を派遣し、また西側諸国はペルシャ湾及びその近海に艦隊を派遣した[5]。10月までに、第82空挺師団を含む第18空挺軍団および海兵隊の第1海兵師団のほか、サウジアラビア軍の東部地域軍やイギリス陸軍の第1機甲師団(英語版)、フランス陸軍の第6軽機甲師団など多国籍軍により、地上での防御態勢が概ね確立された[10]。 シュワルツコフ大将と、統合参謀本部議長 パウエル大将は、クウェート侵攻の直後から攻勢作戦の所要兵力に関心を持っていた[11]。一方、空軍参謀本部では、従来より、戦闘コンセプト副部長であったワーデン大佐
インスタント・サンダー
8月17日、シュワルツコフ大将は、「インスタント・サンダー」をもとに、下記の4つの段階に区分した攻勢作戦の構想をパウエル大将に報告し、作戦名は「砂漠の嵐」となった[13]。
戦略的航空作戦(Strategic Air Campaign)
クウェート戦域での航空優勢獲得(Air Supremacy in KTO)
地上戦開始のための条件作為(Battlefield Preparation)
陸上攻勢作戦(Offensive Ground Campaign)
一方、陸上戦力に関しては、シュワルツコフ大将は、砂漠の盾作戦で展開された戦力のみでは攻勢作戦は困難だと考えていた[11]。10月10・11日には、この意向を受けてワシントンに派遣された中央軍参謀長ジョンストン少将がチェイニー国防長官やブッシュ大統領に対してブリーフィングを行い、攻勢作戦での勝利を要求するのであれば1個軍団の増派が必要であると説明した[11]。チェイニー国防長官とパウエル大将は増派に賛成、10月31日にはブッシュ大統領の承認を受け、陸軍参謀本部での検討を経て、11月8日には在欧陸軍の第7軍団に対して正式な派遣命令が下達された[14]。
中央軍では、増派を受けられた場合と受けられなかった場合の両面で作戦立案を進めていたが、この増派決定以降は、2個軍団を基幹とする陸上攻勢作戦の具体化が進められた[15]。11月14日、シュワルツコフ大将は師団長以上の部隊指揮官をダーランに召集し、「砂漠の嵐」作戦及び陸上攻勢作戦の構想を示達した[15]。 国際的な圧力にもかかわらずイラクの姿勢は軟化せず、上記の通り、11月8日にはアメリカ軍の更なる増派が発表された[16]。そして11月29日、国連安全保障理事会は、イラクが1月15日までにクウェートからの撤退を含めて国連安保理で決議された要求事項を履行しない場合、武力行使を含めた「あらゆる必要な手段」を講じることを認める決議678を採択した[16]。 1月9日、スイスのジュネーヴにおいて、アメリカのベイカー国務長官とイラクのアズィーズ外務大臣の会談が行われたものの、決裂に終わった[16]。1月12日にはアメリカ合衆国議会は武力行使を容認する決議案を採択し、ブッシュ政権は、武力行使について国内外の明確な支持を獲得した[16]。 1月15日17時頃、ペンタゴンの国防長官執務室において、チェイニー国防長官とパウエル大将が多国籍軍の攻撃開始を命ずる執行命令書にフルネームで署名し、機密回線を使って、サウジアラビアのシュワルツコフ大将へと転送し、作戦が開始された[17]。 「砂漠の嵐」作戦の開始時、戦域には2,430機の固定翼機がいた[18]。作戦開始時刻(Hアワー)は、現地時刻で1月17日午前3時と定められた[19]。
安保理決議678と「砂漠の嵐」
戦略的航空作戦
第一撃 (1月17日未明)