石野真子
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なお、同決戦大会の合格者には石野の他、翌1978年の同期歌手デビューの渋谷哲平がいた[4][9][注 3]

石野本人の『スター誕生!』審査時の書類が残されている。そこには「テレビに出演するにあたってのあなたの抱負は?」との質問があり、「新人賞をとりたい、誰からも愛されたい」との回答が記されている[9]

『スター誕生!』決戦大会の勝因について尋ねられた石野は、「選曲が自分に合っていたことと、自分で勝手に考えた振り付けが歌に合っていたことが良かった(のではないか)」と後にコメントしている[4]

デビュー前からファンが付いていたと言われているが、実際に『スター誕生!』第20回決戦大会(1977年4月3日)のスカウト発表場面のDVD映像によると、素人の石野に対して早くも会場の男性ファンから「真子ちゃーん」との声援が飛んでいることが確認できる。

デビュー後はゲストとして何度も出演し、後年「『スター誕生!』は私にとっては家族的な雰囲気の番組でした。スタッフが皆優しくて、特にチーフ・プロデューサーの池田文雄さんにはその後も色々と気にかけてもらったり、奥様が私のステージを観に来て下さったこともありました」と語っている[5]

『スター誕生!』の合格を経て、石野の所属事務所はバーニングプロダクションに決まる。事務所選定時のエピソードについて後の取材で石野は、「何かホントに素人判断なのですが、バーニングには先輩に郷ひろみさんがいらっしゃるから大丈夫じゃないか、と思ったんです。もちろん両親や周りのスタッフの方とも相談して決めましたが、当時の事務所の専務さんから「当社はあなたを将来こういうふうにしたい」という温かいお手紙をいただき、ここだったら安心、みたいな気がしました」(2009年4月、YOMIURI ONLINE)

その後、約1年間をかけてデビューへの準備を行う。父親の希望もあってデビュー曲が出来上がるまでは芦屋の実家で歌のレッスンに励み、高校2年の夏休み1ヶ月間は東京へ出向いて日本テレビ音楽学院に通った[4]。デビュー曲の作曲を担当する吉田拓郎と東京六本木のバーで初対面する。この時の「石野真子」の印象を、吉田は後の著書の中で「本当にこの人デビューするんですか?と思うほど太っていたが、不思議な芸能界は3ヶ月後(レコーディングの時)には見違えるほど変身させて連れて来た」[10]、と記している。
アイドル期 ?100万ドルの微笑? 1978年 - 1981年
1978年

所属事務所からデビュー曲が決定したとの知らせが届き、レコーディング準備に入るため、1月7日、上京することになった。電話の受話器越しに作曲者の吉田拓郎が歌う「狼なんか怖くない」のデモテープを初めて聴き感激したという。レコーディングに関しては「狼なんか怖くない」の「レコーディング」の項を参照。

3月25日、デビュー・シングル「狼なんか怖くない」(作詞: 阿久悠/作曲: 吉田拓郎/ジャケット撮影: 篠山紀信)がビクターから発売。アイドル歌手として芸能界にデビューした。当時のアイドルには必ずと言っていいほどキャッチフレーズが付けられており、石野に付けられたものは「100万ドルの微笑」。ファースト・アルバム『微笑(ほほえみ)』の帯にもその記述が見られる。また、八重歯と垂れ目であることをチャームポイントにしていた[11]。「狼なんか怖くない」を観客の前で初披露したのは、TBSテレビの『笑って!笑って!!60分』。後日感想を訊かれて「私の歌をあんなに喜んでくださるなんてもう最高!、すごく嬉しかった!」とコメント[4]

3月27日、デビュー2日目にフジテレビ系列の音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出演。「狼なんか怖くない」を歌い終えた石野に対し、司会者の芳村真理は「いやー真子ちゃん、デビューして2日目!ご苦労様でした!」と声をかけている[注 4]

デビューからしばらくの間、石野が仕事の移動で使っていた車はマネージャーの井上が運転する「フォルクスワーゲンの真っ赤なビートル」。これは所属事務所の1年先輩の高田みづえが使用していた車を譲り受けたもの[4]。また、当時は極度の男性恐怖症があり、男性マネージャーと2人で車に乗っている時はいつでも車から飛び降りられるように助手席のドアノブを握っていた。

6月25日、シングル2作目「わたしの首領」(わたしのドン)発売(作詞担当の阿久悠は、当時広島で起きていた暴力団抗争からヒントを得て、「首領」を「ドン」と読ませた)。

8月、デビューシングルと2作目を作曲した吉田拓郎がパーソナリティーを務めるラジオ番組『セイ!ヤング』にゲスト出演。本番中のCM開けのジングル「♪セ?イ!ヤ?ング♪」を口ずさんだ石野は吉田から「そうやって、いつも歌ってるわけ?」と尋ねられ、「子供のころからいつも歌っています」と告白。また、自分を動物に例えると何?とのリスナーの質問に、石野が「タヌキ…じゃないですか?」と答えると、吉田は「僕は自分をカモシカだと思ってますけどね」と応じて石野を笑わせた。また吉田は番組内で石野について「あなたは頭が良い」「あなたはラジオよりテレビのほうが面白い!」と称賛した。

当時披露した物まね芸に、アメリカ人美女プロゴルファー「ローラ・ボー」(1978年8月、文化放送『吉田拓郎のセイ!ヤング』で披露。当時流行した日清製油 (現・日清オイリオグループ)のテレビCMに出演した)の歌真似と、「アグネス・チャン」(1979年7月20日、日本テレビ『カックラキン大放送!!』で披露)[9] などがあった。

8月27日、いわゆる「西武園1万人コンサート」開催。この年8月最後の日曜日に、自身初となるコンサート西武園(埼玉県所沢市)で行う。ファンの集いを兼ねたこのコンサートは「石野真子のドンとやってみよう、宿題なんか怖くない、1万人大集会」というタイトルで中高生をターゲットに開催したもので、石野の歌を楽しむ一方、大学教授を招き夏休みの宿題対策を冗談を交えて行う企画だった。集まったファンへのプレゼントとして夏休み期間のお天気情報(天候、気温、湿度)が配られた[4]

10月2日、銀座音楽祭アイドル賞受賞[12]

10月5日、シングル3作目「失恋記念日」発売。

10月12日、新宿音楽祭金賞受賞[12]

10月22日、初めて出演する映画『九月の空』が松竹大船撮影所にて撮影開始。高橋三千綱芥川賞受賞作品『九月の空』を映画化したもので、山根成之監督作品。主人公の高校生・小林勇(坂東正之助)に淡い憧れを抱く初々しい女子高生の松山小夜子役。また、石野の所属事務所先輩の郷ひろみが、ライバル高校の剣道部員役で友情出演している。この映画には主演の坂東正之助とのキスシーンがあったが、元来恋愛に奥手でプライベートですらキスの経験がなかった石野は撮影当日、相当緊張した。キスシーンの撮影自体は1度でOKを出せたものの、本番後の石野は大粒の涙を流した[13]

10月25日、横浜音楽祭新人賞受賞[12]

11月15日、日本歌謡大賞放送音楽新人賞受賞[12]

11月18日、マスコミ関係者を招き東京プリンスホテルにて「早く来い来い、クリスマス・ホームパーティ」を開催。これは石野サイドが普段お世話になっているマスコミ関係者とその家族に感謝の意を表して企画した“ちびっ子サービスを交えたアットホームな歌のショー”である[注 5]

12月2日、映画『九月の空』が松竹系映画館で公開。同時上映は『博多っ子純情』。

12月31日、「失恋記念日」が第20回日本レコード大賞新人賞を受賞[注 6]。「『失恋記念日』は賞を頂けたということで、いつも唄う時には1曲につき2着の衣装があったんですけど、3着・4着と増えたっていうのがすごく嬉しかった」[14]。その後、ビクターレコードの先輩歌手で、かつ石野と同じ『スター誕生!』の出身者でも有る、日本テレビ系列特別番組ピンク・レディー汗と涙の大晦日150分!!』へ、ゲスト生出演した。
1979年

1月11日、イタリアサンレモ音楽祭に出演(新宿音楽祭金賞受賞者が派遣されていた)。

1月25日、シングル4作目「日曜日はストレンジャー」発売。バーニングプロダクションの当時のプロデューサー小口が企画段階から「次のシングルは徹底的に明るい歌にする」としていた作品[13]

1月31日、TBSの連続テレビドラマ、水曜劇場『熱愛一家・LOVE』に出演が決まり、撮影初日。


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