石野真子
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本人によると歌唱審査でこの曲を選んだ理由は、「それまでの『スタ誕』では多くの出場者が日本の歌謡曲を歌っていたので、少しでも印象づけるためフレンチ・ポップスのこの曲を選んだ」としている[5]。審査発表では会場の一般審査員からの得点だけで合格点を超えてしまい、阿久悠ら専門審査員を驚かせる[注 1][注 2]。合格ラインは250点((5人出場時の大会では300点)で、この日の石野の最終得点は530点になり1,000点の過半数を独占した結果になった[4]。しかし、最終目標は後日合格者が集まって開催される「決戦大会」に出場して芸能事務所からのスカウトを受けることであり、ここでスカウトされなければ「歌が上手な一般人」で終わる[8]。なお、この大阪大会に出場した際、バーニングプロダクションのスカウト担当者から「もし決戦大会でダメでもうちに来ませんか、責任を持って歌手に育てますから」と声をかけられていた[4]

3月23日、『スター誕生!』第20回決戦大会に出場(会場:東京・後楽園ホール、放送日: 1977年4月3日)。母に付き添われて上京すると、石野にとって初めての東京は「まるで外国に来たような感覚だった」という[5]。父親から「これに落ちたら、もうオーディション番組を受けたいなんて気持ちを起こすんじゃないぞ」と念を押されて挑戦した。再びダニエル・ビダルの「天使のらくがき」を歌う。「11番、石野真子、一所懸命頑張りました、どうぞよろしくお願いします!」と挨拶した石野に対し、スカウト意向の芸能事務所プラカードが16社挙がる。スカウト希望した事務所には、ビクター音楽産業バーニングプロダクション田辺エージェンシー第一プロダクションキングレコード徳間音楽工業ワーナーパイオニア日本コロムビア長良音楽事務所(名称は放送当時)などがあった。なお、同決戦大会の合格者には石野の他、翌1978年の同期歌手デビューの渋谷哲平がいた[4][9][注 3]

石野本人の『スター誕生!』審査時の書類が残されている。そこには「テレビに出演するにあたってのあなたの抱負は?」との質問があり、「新人賞をとりたい、誰からも愛されたい」との回答が記されている[9]

『スター誕生!』決戦大会の勝因について尋ねられた石野は、「選曲が自分に合っていたことと、自分で勝手に考えた振り付けが歌に合っていたことが良かった(のではないか)」と後にコメントしている[4]

デビュー前からファンが付いていたと言われているが、実際に『スター誕生!』第20回決戦大会(1977年4月3日)のスカウト発表場面のDVD映像によると、素人の石野に対して早くも会場の男性ファンから「真子ちゃーん」との声援が飛んでいることが確認できる。

デビュー後はゲストとして何度も出演し、後年「『スター誕生!』は私にとっては家族的な雰囲気の番組でした。スタッフが皆優しくて、特にチーフ・プロデューサーの池田文雄さんにはその後も色々と気にかけてもらったり、奥様が私のステージを観に来て下さったこともありました」と語っている[5]

『スター誕生!』の合格を経て、石野の所属事務所はバーニングプロダクションに決まる。事務所選定時のエピソードについて後の取材で石野は、「何かホントに素人判断なのですが、バーニングには先輩に郷ひろみさんがいらっしゃるから大丈夫じゃないか、と思ったんです。もちろん両親や周りのスタッフの方とも相談して決めましたが、当時の事務所の専務さんから「当社はあなたを将来こういうふうにしたい」という温かいお手紙をいただき、ここだったら安心、みたいな気がしました」(2009年4月、YOMIURI ONLINE)

その後、約1年間をかけてデビューへの準備を行う。父親の希望もあってデビュー曲が出来上がるまでは芦屋の実家で歌のレッスンに励み、高校2年の夏休み1ヶ月間は東京へ出向いて日本テレビ音楽学院に通った[4]。デビュー曲の作曲を担当する吉田拓郎と東京六本木のバーで初対面する。この時の「石野真子」の印象を、吉田は後の著書の中で「本当にこの人デビューするんですか?と思うほど太っていたが、不思議な芸能界は3ヶ月後(レコーディングの時)には見違えるほど変身させて連れて来た」[10]、と記している。
アイドル期 ?100万ドルの微笑? 1978年 - 1981年
1978年

所属事務所からデビュー曲が決定したとの知らせが届き、レコーディング準備に入るため、1月7日、上京することになった。電話の受話器越しに作曲者の吉田拓郎が歌う「狼なんか怖くない」のデモテープを初めて聴き感激したという。レコーディングに関しては「狼なんか怖くない」の「レコーディング」の項を参照。

3月25日、デビュー・シングル「狼なんか怖くない」(作詞: 阿久悠/作曲: 吉田拓郎/ジャケット撮影: 篠山紀信)がビクターから発売。アイドル歌手として芸能界にデビューした。当時のアイドルには必ずと言っていいほどキャッチフレーズが付けられており、石野に付けられたものは「100万ドルの微笑」。ファースト・アルバム『微笑(ほほえみ)』の帯にもその記述が見られる。また、八重歯と垂れ目であることをチャームポイントにしていた[11]。「狼なんか怖くない」を観客の前で初披露したのは、TBSテレビの『笑って!笑って!!60分』。後日感想を訊かれて「私の歌をあんなに喜んでくださるなんてもう最高!、すごく嬉しかった!」とコメント[4]

3月27日、デビュー2日目にフジテレビ系列の音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出演。「狼なんか怖くない」を歌い終えた石野に対し、司会者の芳村真理は「いやー真子ちゃん、デビューして2日目!ご苦労様でした!」と声をかけている[注 4]

デビューからしばらくの間、石野が仕事の移動で使っていた車はマネージャーの井上が運転する「フォルクスワーゲンの真っ赤なビートル」。これは所属事務所の1年先輩の高田みづえが使用していた車を譲り受けたもの[4]。また、当時は極度の男性恐怖症があり、男性マネージャーと2人で車に乗っている時はいつでも車から飛び降りられるように助手席のドアノブを握っていた。

6月25日、シングル2作目「わたしの首領」(わたしのドン)発売(作詞担当の阿久悠は、当時広島で起きていた暴力団抗争からヒントを得て、「首領」を「ドン」と読ませた)。

8月、デビューシングルと2作目を作曲した吉田拓郎がパーソナリティーを務めるラジオ番組『セイ!ヤング』にゲスト出演。本番中のCM開けのジングル「♪セ?イ!ヤ?ング♪」を口ずさんだ石野は吉田から「そうやって、いつも歌ってるわけ?」と尋ねられ、「子供のころからいつも歌っています」と告白。また、自分を動物に例えると何?とのリスナーの質問に、石野が「タヌキ…じゃないですか?」と答えると、吉田は「僕は自分をカモシカだと思ってますけどね」と応じて石野を笑わせた。また吉田は番組内で石野について「あなたは頭が良い」「あなたはラジオよりテレビのほうが面白い!」と称賛した。

当時披露した物まね芸に、アメリカ人美女プロゴルファー「ローラ・ボー」(1978年8月、文化放送『吉田拓郎のセイ!ヤング』で披露。当時流行した日清製油 (現・日清オイリオグループ)のテレビCMに出演した)の歌真似と、「アグネス・チャン」(1979年7月20日、日本テレビ『カックラキン大放送!!』で披露)[9] などがあった。

8月27日、いわゆる「西武園1万人コンサート」開催。この年8月最後の日曜日に、自身初となるコンサート西武園(埼玉県所沢市)で行う。ファンの集いを兼ねたこのコンサートは「石野真子のドンとやってみよう、宿題なんか怖くない、1万人大集会」というタイトルで中高生をターゲットに開催したもので、石野の歌を楽しむ一方、大学教授を招き夏休みの宿題対策を冗談を交えて行う企画だった。集まったファンへのプレゼントとして夏休み期間のお天気情報(天候、気温、湿度)が配られた[4]

10月2日、銀座音楽祭アイドル賞受賞[12]

10月5日、シングル3作目「失恋記念日」発売。

10月12日、新宿音楽祭金賞受賞[12]

10月22日、初めて出演する映画『九月の空』が松竹大船撮影所にて撮影開始。高橋三千綱芥川賞受賞作品『九月の空』を映画化したもので、山根成之監督作品。主人公の高校生・小林勇(坂東正之助)に淡い憧れを抱く初々しい女子高生の松山小夜子役。また、石野の所属事務所先輩の郷ひろみが、ライバル高校の剣道部員役で友情出演している。この映画には主演の坂東正之助とのキスシーンがあったが、元来恋愛に奥手でプライベートですらキスの経験がなかった石野は撮影当日、相当緊張した。


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