石神井川
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滝野川の町境の北側が石神井川上から一部半円状に外れる部分はかつての流路で、現在「音無もみじ緑地公園」になっており、江戸名所図会松橋弁財天窟 石神井川』に描かれる江戸の名所だった。現在は川岸は整備されてかつての渓谷の風情はない。
王子石堰
広重画「江戸名所百景 王子音無川堰棣 世俗大瀧ト唱」江戸時代の明暦2年(1656年)、永田九郎兵衛[注 1]の普請により現在の音無橋付近に石積みの堰堤(石堰)を設置した[9]。これは、隅田川からの海水の遡上の防止と、旧石神井川河道を流れる谷田川流域(本郷台上野台との間)への利水のためである。石樋を落ちる石神井川本流は王子の大滝などと呼ばれ、王子七滝[注 2]とならぶ名所として絵図にも書かれた。堰からは用水が引かれ、一方は尾久村三河島村へ通水され(石神井用水)、もう一方は滝野川村へ通水された(こちらは石神井川から流れ出ているために「逆川」と呼ばれ、醸造試験所のあった付近は「字逆サ川前」となっていた)。
飛鳥山分水路
かつては音無渓谷は王子駅付近は飛鳥山(上野台地)と北側の王子稲荷のある高台との狭い間を通って東へ流れていた。1969年3月に完成した[4]。旧流路は、音無親水公園となり、現在は汲み上げた地下水が流されている。

この後、石神井川は王子駅の直下を通り東側の豊島の低地へ抜けて隅田川へ注いでいる。
下流の流路変遷についての学説

石神井川の上流から王子付近まで続く谷底低地飛鳥山の手前で南へ向きを変え、本郷台上野台の間の谷田川が流れる谷底低地へと地形的に連続している。これらのことから、石神井川がかつては谷田川へと流路を取っていたが、河川争奪によって現在のように隅田川へ流れるようになったとする説が、戦前は地形学者の東木龍七、戦後は地形学者の貝塚爽平などによって唱えられていた[11]。流路変遷が起こった原因と時期については諸説ある。
縄文時代の河川争奪説

1976年、東京都土木技術研究所の中山俊雄らはボーリング調査による石神井川と谷田川沿いの地質断面図を作成し、石神井川の流路変遷を論じた[12]。彼らは、谷田川から不忍池を経て昭和通りにいたる地下に基底が-20mに達する埋没谷が存在すること、石神井川下流の王子から隅田川合流までの地下に埋没谷が存在しないこと、流域の小さい谷田川のみで昭和通り谷が形成されたとは考えがたいことを指摘。昭和通り谷の形成時期に谷田川がその上流で石神井川でつながっており、これが石神井川の本流であったと結論づけた。また、立川ローム層を鍵層とした江古田層との対比より、石神井川の王子より上流の河谷底に堆積する泥炭層をサブボレアル期(4500 - 2500年前)のものとし、音無渓谷がこの泥炭層を開析しているように見えることから、渓谷の形成時期をサブボレアル期以後とした。

1994年、北区教育委員会の中野守久らは石神井川の流路変遷時期を特定するため、現・石神井川から離れてすぐの谷田川の谷底低地にてボーリング調査を行い、その結果を発表した[13]。彼らは山手層(本郷層)の上位に泥炭質粘土からなる沖積層を発見し滝野川泥炭層と命名、14C年代測定によって約7400年前から約1000年前までに堆積したものと分かった。中野らは滝野川泥炭層は石神井川下流部が現在の流路をとるようになってから、旧河床が沼沢地となった環境で形成されたと考えた。また、石神井川が本郷台東端で縄文海進(6500-5500年前)に形成された埋没上位波食台(中里遺跡発掘の際に発見された)を侵食していないことなどから、縄文海進最盛期より後に河川争奪が起こったと推定した。これらのことから、石神井川は縄文海進最盛期に本郷台の崖端侵食に起因した河川争奪を起こし、流路を奪われた谷田川上流部では沼沢地となり滝野川泥炭層が堆積し、王子方向へと流出した新河流は河床を深く掘り込んで峡谷を作った、と結論づけた。したがって、平川(現・神田川)と同様にそれまでは東京湾へ注いでいた石神井川は、現在の隅田川(荒川水系)へ合流することとなった。

北区飛鳥山博物館では中野らの研究成果に基づき、縄文時代の河川争奪説の解説が展示されている[14]
中世以降の人為掘削説

歴史研究家鈴木理生1978年の自著において、石神井川が現在の石神井川と谷田川に分断されたのは人為的な工事の結果であると主張した[15]。鈴木は飛鳥山付近の台地が東から広義の利根川、西から石神井川の浸蝕を受けて人為的に短絡しやすい地形であったこと、「滝野川」という地名が登場するのは13世紀後半に成立した『源平盛衰記』以後のことで、正史の『吾妻鏡』には見られないことなどから、この間に人為的な掘削があったと推論した。この工事は、豊島氏による下町低地への灌漑水路の開発、または矢野氏による洪水防止の工事であったと鈴木は推定した。

後の2003年、鈴木は著作『江戸・東京の川と水辺の事典』の中で、上述の中野らによる自然現象説を紹介するとともに、再び人為変更説を主張した[16]。まず鈴木は『源平盛衰記』に「滝野河」の名前があるのは、この時期にすでに滝のような水流で渓谷ができていたと解釈できるとして、この時期の工事説は述べなかった。代わりに、江戸時代に刊行された多くの地誌で不忍池とお玉が池の説明ぶりが不自然である点、軍用道路であった岩槻道(現在の本郷通り)は石神井川をまたぐより台地の縁沿いに通るほうが自然である点を指摘し、江戸氏太田道灌後北条氏あるいは徳川氏初期に江戸湊の洪水を防ぐために瀬替えしたと主張した。
古石神井川とかつての河道

最終氷期の海退期にも石神井川は存在し、これを「古石神井川」と呼んでいる。ボーリング調査によって、かつての河道は不忍池からほぼまっすぐ南下し、日本橋台(江戸前島)の東側をなおも南下し、西側を並走していた丸の内谷(日比谷入江)を刻んだ平川(現・神田川)芝浦沖あたりで合流している[17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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