石川達三
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

だが後任が決まらず、突如ペンクラブを退会し会長を退いた[45][注 4]奥野健男は「晩年は社会良識を代表するという立場が逆にガンコとも受け取られたようだ」と石川を評している[46]

1983年頃から心臓を悪くするなど晩年は病気がちであった[46]1985年1月21日、持病の胃潰瘍が悪化して吐血し東京共済病院に搬送され、その後肺炎を併発[46]。31日死去した。墓は九品仏浄真寺にある。[要出典]
作風.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節の加筆が望まれています。

英文学者で評論家の中野好夫は、「田舎者で小市民」という性格は石川文学の底を貫いているとし、それは一部の読者を遠ざけてもいるが、一貫した強みになっていることも疑いない、と論じている。そして中野は石川が大正期に自由主義者として自己を形成し、軍国主義への抵抗を秘めていたとも考えている[47]

石川は多読をせず、先輩作家に師事して、その推薦によって文壇に出るという道を採らなかった。志賀直哉宇野浩二徳田秋声のような私小説には最初からはっきり異質感をもったという[48]。多少とも影響を受けた作家として、アナトール・フランスエミール・ゾラをあげている。松本清張山崎豊子が対談の中で論じているようなストーリー構成力の豊富さという点は、この二人の外国作家に学んだとも考えられる。日本で系譜のようなものを求めるとすれば、菊池寛山本有三島木健作のようないわゆる社会派作家に近い[49]

戦後になって評論家の岩上順一から問題作『生きている兵隊』について「反戦文学ではなく、侵略戦争の本質をおおい隠している」と批判され、石川は「日華事変の本質は理解できなかった」と認めた上で、戦場における戦争のみ小説に再現しようとしただけで、「どこの戦場にも侵略戦争の本質などはころがっていなかった」と居直っている[50]
逸話

野間文芸賞菊池寛賞など幾つかの文学賞の選考委員を務め、芥川賞は戦後第1回目から就任したが、1971年上半期第65回(受賞作なし)に際して「候補作八篇のうち五篇までは、何を書こうとしているのか、何が言いたいのか、少しもはっきりしない。」「小説がノイローゼによって書かれるような傾向、そういう作品が読者から歓迎されるらしい傾向を見聞するにつれて、もはや私が芥川賞の選に当るべき時期は過ぎたと思った。」「年齢的にはずれがあるけれど、せめて私にも解らせる程度の小説を書かなくては、一般読者にまともに理解されるはずはない」などと述べて選考委員を辞任[51]。新人世代の創作を問題視した。この若い人たちの作品がわからなくなったという発言は話題となり、論議をもたらした[52]

趣味はゴルフ丹羽文雄とともにシングル・プレイヤーとして「文壇ではずば抜けた腕前」と言われた。[要出典]

「竹林会」という日曜画家クラブのリーダーであり、風景画などを描いた[46]

石川にとって題名は「作品全体の性格を象徴するもの」であり、題名が決まらないと小説が書き始められないという癖をもっていた[53]

戦後の1946年4月10日第22回衆議院議員総選挙東京2区で、日本民党(にほんたみのとう)公認候補として立候補するが、立候補者133名のうち、定数12名の22位にあたる24,101票で落選[注 5]

婦人参政権不要論を唱えたこともあり、長谷川町子の『いじわるばあさん』でネタとして取り上げられた。主人公・いじわるばあさんが執筆活動を妨害するが、達三ではなく、間違えて松本清張の執筆を妨害するというオチであった[54]

昭和20年10月2日付の毎日新聞に、「闇黒時代は去れり」という文章を投稿し、「日本人に対し極度の不信と憎悪を感ず」「今の日本人の根性を叩き直すためにマッカーサー将軍よ一日も長く日本に君臨せられんことを請う」と書いた。当時これを読んだ山田風太郎は、その態度の豹変ぶりと議論の浅薄を憤慨し、日記に残している[55]

明治38年生まれが交流する「三八会」に参加していた。メンバーは石川の他に、伊藤整中山正善稲生平八(森永重役)、入江相政玉川一郎木村義雄高木健夫志村喬福田久雄福田蘭堂藤原釜足馬淵威雄成瀬正勝鹿島孝二[56]

1970年のノーベル文学賞選定過程で、石川が候補の一人として推薦されていたことが2021年に明らかになった。なお、同年では伊藤整もリストアップされていた[57]。推薦者はいずれも芹沢光治良(当時日本ペンクラブ会長)である[58]

著書

『最近南米往来記』昭文閣書房 1931年
中公文庫 1981年

『蒼氓』改造社 1935年 のち新潮文庫

『深海魚』改造社 1936年 のち角川文庫

『飼ひ難き鷹』新英社 1937年

『日蔭の村』新潮社 1937年 のち文庫

『炎の薔薇 新小説選集』春陽堂 1938年

『あんどれの母』版画荘文庫 1938年

『流離』竹村書房 1938年

『結婚の生態』新潮社、1938年 のち文庫

『若き日の倫理』実業之日本社 1939年 のち新潮文庫

『智慧の青草』新潮社 1939年 のち角川文庫

『薫風 自選作品集』婦人文化社出版部 1940年

『盲目の思想』砂子屋書房(黒白叢書) 1940年

『転落の詩集』新潮社 1940年 のち文庫

『花のない季節』中央公論社 1940年 のち文庫

『人生画帖』新潮社、1940年 のち角川文庫

『武漢作戦』中央公論社 1940年 のち文庫

『大地と共に生きん』青梧堂 1940年

『愛の嵐』実業之日本社 1940年

『使徒行伝』新潮社 1941年

『赤虫島日誌』八雲書店 1943年

生きてゐる兵隊河出書房 1945年 のち角川文庫、新潮文庫、中公文庫

『心猿』八雲書店 1946年 のち角川文庫

『望みなきに非ず』読売新聞社 1947年 のち新潮文庫

『ろまんの残党』八雲書店 1947年 のち中公文庫

『母系家族』春陽堂 1948年 のち角川文庫

『石川達三選集』全14巻 八雲書店 1948年-1949年

『風雪』新潮社 1948年

幸福の限界』蜂書房 1948年 のち新潮文庫

『群盲』洗心書林 1949年

『心の虹』実業之日本社 1949年

『書斎の憂欝』六興出版社 1949年

泥にまみれて』新潮社 1949年 のち文庫

『暗い歎きの谷』文藝春秋新社 1949年 のち角川文庫


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:87 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef