石川達三
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やや通俗的な嫌いはあるが、社会的正義感とヒューマニズムに立脚した作品は[15]、記録的手法と相まって多くの読者を獲得、大きな反響を呼んだ[31]。特に、横浜事件を材に戦中戦後の自由主義者の受難を描いた『風にそよぐ葦』(1949-51年毎日新聞連載)や、佐教組事件を材に政治と教育の確執を描いて大ベストセラーとなった『人間の壁』(1957-59年朝日新聞連載)などは社会小説の名作として高く評価され、著者の代表作となった[32]。資本家の横暴を描いた『傷だらけの山河』(1964年新潮社刊)や、九頭竜川ダム汚職事件を材に政界の腐敗を告発した『金環蝕』(1966年同社刊)も話題を呼んだ[33]。これらの成果により[34]1969年菊池寛賞を受賞。毎日新聞社が毎年実施する読書世論調査では、戦後から1970年代末まで「好きな著者」の上位常連であった[注 3]

他にも純文学系統の裁判物『神坂四郎の犯罪』(1949年新潮社刊)や、冒険的な作品『最後の共和国』(1952年中央公論社刊)などがあり[35]、ここにも石川ならではの資質と社会性が鮮やかに表出されている[36]。また、『私ひとりの私』(1965年文藝春秋新社刊)は60年の生涯を振り返って、母への愛情や無責任な父への批判、功利的な叔父夫婦の姿などを通して、自己の幼少期を回想した作品だが、同時にそこには石川固有の人生観が示されており、その与えた感動によって[37]文藝春秋読者賞を受けた。『約束された世界』(1967年新潮社刊)や、それを深化させた『解放された世界』(1971年同社刊)『その最後の世界』(1974年同社刊)などは、石川文学の新しい展開として話題を呼んだ[38]

昭和30年代頃からは、社会的活動が活発となり、日本文芸家協会理事長(1952年-56年)、A・A作家会議東京大会団長(1961年)、日本文芸著作権保護同盟会長、日本ペンクラブ第7代会長(1975年-77年)などの要職を歴任。大衆の支持を背景に社会的発言も増え、その内容はしばしば論壇・文壇に論議をもたらした。1956年アジア連帯文化使節団団長として世界各国を歴訪した後には、資本主義社会の過剰な「自由」を批判。翌年には川崎長太郎谷崎潤一郎らの作品を猥褻だとして行き過ぎた言論の自由を非難した[39]1975年の日本ペンクラブ会長就任時には、「言論の自由には絶対に譲れぬ自由と、譲歩できる自由の二種類あり、ポルノなどは後者に属する」という[40]「二つの自由」発言が波紋を呼び、五木寛之理事ら改革派の若手会員からは抗議を受けた[41]。特に野坂昭如理事とは白熱の論争をして一歩も譲らず、ペンクラブは翌年まで混乱が続いた[42]。結局、役員会の裁断で石川は事実上の撤回を迫られ、混乱は一旦収拾したが[43]、石川は会長再任を辞退[44]。だが後任が決まらず、突如ペンクラブを退会し会長を退いた[45][注 4]奥野健男は「晩年は社会良識を代表するという立場が逆にガンコとも受け取られたようだ」と石川を評している[46]

1983年頃から心臓を悪くするなど晩年は病気がちであった[46]1985年1月21日、持病の胃潰瘍が悪化して吐血し東京共済病院に搬送され、その後肺炎を併発[46]。31日死去した。墓は九品仏浄真寺にある。[要出典]
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英文学者で評論家の中野好夫は、「田舎者で小市民」という性格は石川文学の底を貫いているとし、それは一部の読者を遠ざけてもいるが、一貫した強みになっていることも疑いない、と論じている。そして中野は石川が大正期に自由主義者として自己を形成し、軍国主義への抵抗を秘めていたとも考えている[47]

石川は多読をせず、先輩作家に師事して、その推薦によって文壇に出るという道を採らなかった。志賀直哉宇野浩二徳田秋声のような私小説には最初からはっきり異質感をもったという[48]。多少とも影響を受けた作家として、アナトール・フランスエミール・ゾラをあげている。松本清張山崎豊子が対談の中で論じているようなストーリー構成力の豊富さという点は、この二人の外国作家に学んだとも考えられる。日本で系譜のようなものを求めるとすれば、菊池寛山本有三島木健作のようないわゆる社会派作家に近い[49]

戦後になって評論家の岩上順一から問題作『生きている兵隊』について「反戦文学ではなく、侵略戦争の本質をおおい隠している」と批判され、石川は「日華事変の本質は理解できなかった」と認めた上で、戦場における戦争のみ小説に再現しようとしただけで、「どこの戦場にも侵略戦争の本質などはころがっていなかった」と居直っている[50]
逸話

野間文芸賞菊池寛賞など幾つかの文学賞の選考委員を務め、芥川賞は戦後第1回目から就任したが、1971年上半期第65回(受賞作なし)に際して「候補作八篇のうち五篇までは、何を書こうとしているのか、何が言いたいのか、少しもはっきりしない。」「小説がノイローゼによって書かれるような傾向、そういう作品が読者から歓迎されるらしい傾向を見聞するにつれて、もはや私が芥川賞の選に当るべき時期は過ぎたと思った。」「年齢的にはずれがあるけれど、せめて私にも解らせる程度の小説を書かなくては、一般読者にまともに理解されるはずはない」などと述べて選考委員を辞任[51]。新人世代の創作を問題視した。この若い人たちの作品がわからなくなったという発言は話題となり、論議をもたらした[52]

趣味はゴルフ丹羽文雄とともにシングル・プレイヤーとして「文壇ではずば抜けた腕前」と言われた。[要出典]

「竹林会」という日曜画家クラブのリーダーであり、風景画などを描いた[46]

石川にとって題名は「作品全体の性格を象徴するもの」であり、題名が決まらないと小説が書き始められないという癖をもっていた[53]

戦後の1946年4月10日第22回衆議院議員総選挙東京2区で、日本民党(にほんたみのとう)公認候補として立候補するが、立候補者133名のうち、定数12名の22位にあたる24,101票で落選[注 5]


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