石川達三
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父方の伯父に石川伍一がいる[3]

父の転勤や転職に伴って、2歳の時(1908年秋田市楢山本新町上丁35番地に、7歳の時(1912年東京府荏原郡大井町(現東京都品川区)に、同年9月岡山県上房郡高梁町(現高梁市)に移った[4]1914年、9歳で母を亡くし、東京の叔父石川六郎の家に預けられたが、1915年に父が再婚し、後妻せいに育てられる[4][注 1]。小学校を首席で卒業し、東京府立一中を受験したが不合格で、高等小学校に1年通学し、1919年父が教頭をしていた岡山県立高梁中学校に入学[5]。3年の時、父の転任に伴い、岡山市私立関西中学校4年に編入し卒業、第六高等学校を受験するも不合格[5]。1年間の受験生活の間に、島崎藤村ゾラアナトール・フランスなどの作品を読む[5]1925年、上京し早稲田大学第二高等学院に入学、級友間の同人誌『薔薇盗人』に小説を書いたり、『大阪朝日新聞』の懸賞小説に応募したり、『山陽新報』に持ち込んだりする[6]1926年には『山陽新報』に「寂しかったイエスの死」が掲載され、これが活字になった最初の作品となった[7]。この頃経済的に行き詰り、学業を断念してフィリピン満洲に縁故を頼って渡ろうとしていたところ、同年『大阪朝日新聞』に「幸福」(原題「幸不幸」)が当選し200円の賞金が入ったので[8][注 2]1927年早稲田大学文学部英文科に進むも、学資が続かず1年で中退[9]。国民時論社に就職し、電気業界誌『国民時論』の編集に携わる[10]。生活上の基盤を得て、いよいよ小説家になる志を高め、各社に創作を持ち込むも上手くいかなかった[5]

1930年3月、政府補助単独移民として移民船でブラジルに渡航。これは、移民取扱会社南洋興業に兄の友人が勤めていた縁によるもので、本来は夫婦や家族持ちでなければ渡航できないところ特別に許可を得た[11]。渡航に際して石川は、旅費の足しを得るために、帰国後「体験記」のようなものを書く約束で国民持論社を一旦退職した形をとり退職金600円を手にした[12]。米良功所有のサント・アントニオ農場に約1か月、のち「上地旅館」に止宿、日本人農場に滞在し、8月に帰国[4]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}国民時論社に復職[要出典]。1931年6月『新早稲田文学』の同人となり、幾つかの短篇を発表した[13]。その後、国民時論社を再度退職し、嘱託として働く[要出典]。

1935年4月、ブラジルの農場での体験を元に、移民を余儀なくされた人々の惨めさを描いた「蒼氓」を同人誌『星座』創刊号に発表[14]。これが素材の新しさとリアリズムの本流をゆく堅実な手法とで選考委員に認められ[15]、8月第1回芥川龍之介賞に当選。新聞には「無名作家」と報じられた[16]。10月には改造社より『蒼氓』が刊行された。次いで、水道用貯水池建設のために湖底に沈む小河内村を取材し、1937年9月「日蔭の村」を『新潮』に発表(10月新潮社刊)[17]。「調べた芸術」として文壇に話題を呼び、ルポルタージュ的手法を用いた一種の社会小説として評価された[18]。この間の1936年11月には梶原代志子と結婚し、翌年8月には長女希衣子が誕生している[4]1937年12月、中央公論の特派員として、日中戦争の戦場中支方面に出発。南京事件から数週間後の南京に翌年1月まで滞在し、他に上海周辺を歩いた[19]。この時の見聞をもとにして、『中央公論』1938年3月号に「生きてゐる兵隊」を発表。しかし、同号は新聞紙法41条違反容疑で即日発禁処分となり[20]、石川は起訴され、禁錮4か月、執行猶予3年の有罪判決を受ける[4]。戦前の日本文学史に残る筆禍事件となった[21]。その挫折感から家庭内部に主題を限定、恋愛と結婚の理想を求めた『結婚の生態』(1938年)がベストセラーとなり、『智慧の青草』(1939年11月新潮社刊)『転落の詩集』(1940年同社刊)『三代の矜持』(1940年三笠書房刊)など、女性ものと名付けられる[18]一系列を拓いて、人気作家の座を確実なものとした[22]。『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』連載の『母系家族』以降は新聞小説に進出。1942年5月に、南洋諸島を旅行し、東南アジアを取材、『赤虫島日誌』(1943年5月)などを発表[2]。同年12月、太平洋戦争が開戦すると間もなく海軍報道班員として徴用され、サイゴンに派遣された[2]。なお、1939年7月には次女希和子が、1943年9月には長男が誕生しており、1944年9月には父祐助が死去[23]。同年1月には東京都世田谷区奥沢町に新築移転し、本籍を毛馬内から移した[24]

戦後も新聞小説を中心に活躍。極めて幅のある社会感覚を盛り込み[25]、時代風潮を鋭敏に反映させた[26]作品で、獅子文六石坂洋次郎らと共に全盛期の新聞小説の筆頭に挙げられる人気を博し、またその作風と時に新奇な手法を用いることで異端児とも目された[27]。戦中からの女性ものは、風俗小説と結びつき[18]、失業軍人を中心に世相を諷刺した「望みなきに非ず」は、1947年7月『読売新聞』に連載されて評判を呼んだ[28]。以後も、女の幸せを追及した『幸福の限界』(1948年中京新聞他連載)、美しい夫婦愛を描く『泥にまみれて』(1949年新潮社刊)、新旧世代の悲喜劇『青色革命』(1952-53年毎日新聞連載)、現代人の絶望と破滅を描いた『悪の愉しさ』(1953年読売新聞連載)、エゴイストたちの醜さを描いた『自分の穴の中で』(1954-55年朝日新聞連載)、中年男の浮気を扱った『四十八歳の抵抗』(1956年読売新聞連載)、現代人の充実した生を追求した『充たされた生活』(1961年新潮社刊)、結婚の意義を扱った『僕たちの失敗』(1961年読売新聞連載)、愛情のあり方を描いた『稚くて愛を知らず』(1964年中央公論社刊)、エゴイズムの悲劇を描いた『青春の蹉跌』(1968年毎日新聞連載)など、社会における個人の生活、愛、結婚、生き方などテーマにした話題作を次々と発表[29]


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