石川達三
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南京事件から数週間後の南京に翌年1月まで滞在し、他に上海周辺を歩いた[19]。この時の見聞をもとにして、『中央公論』1938年3月号に「生きてゐる兵隊」を発表。しかし、同号は新聞紙法41条違反容疑で即日発禁処分となり[20]、石川は起訴され、禁錮4か月、執行猶予3年の有罪判決を受ける[4]。戦前の日本文学史に残る筆禍事件となった[21]。その挫折感から家庭内部に主題を限定、恋愛と結婚の理想を求めた『結婚の生態』(1938年)がベストセラーとなり、『智慧の青草』(1939年11月新潮社刊)『転落の詩集』(1940年同社刊)『三代の矜持』(1940年三笠書房刊)など、女性ものと名付けられる[18]一系列を拓いて、人気作家の座を確実なものとした[22]。『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』連載の『母系家族』以降は新聞小説に進出。1942年5月に、南洋諸島を旅行し、東南アジアを取材、『赤虫島日誌』(1943年5月)などを発表[2]。同年12月、太平洋戦争が開戦すると間もなく海軍報道班員として徴用され、サイゴンに派遣された[2]。なお、1939年7月には次女希和子が、1943年9月には長男が誕生しており、1944年9月には父祐助が死去[23]。同年1月には東京都世田谷区奥沢町に新築移転し、本籍を毛馬内から移した[24]

戦後も新聞小説を中心に活躍。極めて幅のある社会感覚を盛り込み[25]、時代風潮を鋭敏に反映させた[26]作品で、獅子文六石坂洋次郎らと共に全盛期の新聞小説の筆頭に挙げられる人気を博し、またその作風と時に新奇な手法を用いることで異端児とも目された[27]。戦中からの女性ものは、風俗小説と結びつき[18]、失業軍人を中心に世相を諷刺した「望みなきに非ず」は、1947年7月『読売新聞』に連載されて評判を呼んだ[28]。以後も、女の幸せを追及した『幸福の限界』(1948年中京新聞他連載)、美しい夫婦愛を描く『泥にまみれて』(1949年新潮社刊)、新旧世代の悲喜劇『青色革命』(1952-53年毎日新聞連載)、現代人の絶望と破滅を描いた『悪の愉しさ』(1953年読売新聞連載)、エゴイストたちの醜さを描いた『自分の穴の中で』(1954-55年朝日新聞連載)、中年男の浮気を扱った『四十八歳の抵抗』(1956年読売新聞連載)、現代人の充実した生を追求した『充たされた生活』(1961年新潮社刊)、結婚の意義を扱った『僕たちの失敗』(1961年読売新聞連載)、愛情のあり方を描いた『稚くて愛を知らず』(1964年中央公論社刊)、エゴイズムの悲劇を描いた『青春の蹉跌』(1968年毎日新聞連載)など、社会における個人の生活、愛、結婚、生き方などテーマにした話題作を次々と発表[29]。長きに渡って人気を保ち、『望みなきに非ず』『風にそよぐ葦』『四十八歳の抵抗』『青春の蹉跌』など書名の幾つかはそのまま流行語にもなった[30]

他方で、「調べた芸術」の手法を駆使して社会小説の大作にも取り組み、その本領を発揮。やや通俗的な嫌いはあるが、社会的正義感とヒューマニズムに立脚した作品は[15]、記録的手法と相まって多くの読者を獲得、大きな反響を呼んだ[31]。特に、横浜事件を材に戦中戦後の自由主義者の受難を描いた『風にそよぐ葦』(1949-51年毎日新聞連載)や、佐教組事件を材に政治と教育の確執を描いて大ベストセラーとなった『人間の壁』(1957-59年朝日新聞連載)などは社会小説の名作として高く評価され、著者の代表作となった[32]。資本家の横暴を描いた『傷だらけの山河』(1964年新潮社刊)や、九頭竜川ダム汚職事件を材に政界の腐敗を告発した『金環蝕』(1966年同社刊)も話題を呼んだ[33]。これらの成果により[34]1969年菊池寛賞を受賞。毎日新聞社が毎年実施する読書世論調査では、戦後から1970年代末まで「好きな著者」の上位常連であった[注 3]

他にも純文学系統の裁判物『神坂四郎の犯罪』(1949年新潮社刊)や、冒険的な作品『最後の共和国』(1952年中央公論社刊)などがあり[35]、ここにも石川ならではの資質と社会性が鮮やかに表出されている[36]。また、『私ひとりの私』(1965年文藝春秋新社刊)は60年の生涯を振り返って、母への愛情や無責任な父への批判、功利的な叔父夫婦の姿などを通して、自己の幼少期を回想した作品だが、同時にそこには石川固有の人生観が示されており、その与えた感動によって[37]文藝春秋読者賞を受けた。『約束された世界』(1967年新潮社刊)や、それを深化させた『解放された世界』(1971年同社刊)『その最後の世界』(1974年同社刊)などは、石川文学の新しい展開として話題を呼んだ[38]

昭和30年代頃からは、社会的活動が活発となり、日本文芸家協会理事長(1952年-56年)、A・A作家会議東京大会団長(1961年)、日本文芸著作権保護同盟会長、日本ペンクラブ第7代会長(1975年-77年)などの要職を歴任。大衆の支持を背景に社会的発言も増え、その内容はしばしば論壇・文壇に論議をもたらした。1956年アジア連帯文化使節団団長として世界各国を歴訪した後には、資本主義社会の過剰な「自由」を批判。翌年には川崎長太郎谷崎潤一郎らの作品を猥褻だとして行き過ぎた言論の自由を非難した[39]1975年の日本ペンクラブ会長就任時には、「言論の自由には絶対に譲れぬ自由と、譲歩できる自由の二種類あり、ポルノなどは後者に属する」という[40]「二つの自由」発言が波紋を呼び、五木寛之理事ら改革派の若手会員からは抗議を受けた[41]。特に野坂昭如理事とは白熱の論争をして一歩も譲らず、ペンクラブは翌年まで混乱が続いた[42]。結局、役員会の裁断で石川は事実上の撤回を迫られ、混乱は一旦収拾したが[43]、石川は会長再任を辞退[44]。だが後任が決まらず、突如ペンクラブを退会し会長を退いた[45][注 4]奥野健男は「晩年は社会良識を代表するという立場が逆にガンコとも受け取られたようだ」と石川を評している[46]

1983年頃から心臓を悪くするなど晩年は病気がちであった[46]1985年1月21日、持病の胃潰瘍が悪化して吐血し東京共済病院に搬送され、その後肺炎を併発[46]。31日死去した。墓は九品仏浄真寺にある。[要出典]


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