石川県
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改作法は所期した成果を挙げ、藩政の安定に寄与した[51]

このころから加賀藩は蔵米日本海から関門海峡瀬戸内海を通り大坂まで運ぶ船輸送を始め、後の西廻海運の基となった[52]

なお、1659年に白山が噴火(最も新しい噴火)。1668年1671年には手取川の洪水で多数の死者が出ている[53]江戸時代前期の古九谷の銚子

加賀藩は産業の振興に力を入れ、かつ学問や文芸を奨励したことから、城下町の金沢を中心として今に続く伝統文化が興隆した。

金沢城内に設けた御細工所は初め武器・武具の修理などを行う組織であったが、利常は茶の湯道具や掛幅など美術工芸品の製作・修理をさせ、綱紀は塗物・蒔絵細工、象嵌細工など20を越える職種を扱わせた。

綱紀は学問の奨励のため木下順庵室鳩巣稲生若水といった学者の招聘につとめた。

綱紀が収集した古今東西の図書は尊経閣文庫として受け継がれている。

能楽も盛んで、利家は金春流を好み、その後の藩主達にも受け継がれたが、綱紀が宝生流を取り入れ加賀宝生を成立させると、後者が主流となり栄えた。

兼六園は綱紀による蓮池庭と御殿の建設が始まりとされ、現在の姿が完成するのは江戸時代後期である[11][54]

輪島塗は江戸時代に輪島で下地塗りの漆に混ぜる珪藻土が見つかったことで堅牢な漆器となり、日用食器として盛んに生産されるようになった。

北前船が寄港する輪島港の海運の利を活かして全国に販路を広げた。

また江戸時代後期には沈金や蒔絵の技法が加わり美術工芸品としても発展した[55][56]

大聖寺藩では江戸時代初めに殖産興業の一環として鉱山開発に取り組み九谷村(現:加賀市)で磁鉱が発見されたことから窯を築き色絵磁器(九谷焼)の製造が始まった。

一旦廃窯されるが九谷焼は加賀藩により再興され、明治期には海外への輸出品となった[57]

江戸時代後期、加賀藩は1792年藩校の文学校明倫堂と武学校経武館を文武ごとに別けて設立した[54]

明倫堂では儒学のほか易学、医学、本草学暦学算学などを、経武館では馬術剣術などを教えた。

また幕末には洋式兵学校の壮猶館や航海、測量の実習のための軍艦所を作り、ヨーロッパから洋式艦船を購入するなど海防に力を注いだ[54][58]
近代大正時代に竣工した旧・石川県庁(現:石川県政記念しいのき迎賓館)(金沢市)

1869年(明治2年)版籍奉還で加賀藩は金沢藩となり、14代藩主前田慶寧は金沢藩知事に任命された[54]。しかし、1871年(明治4年)7月14日には廃藩置県が行われ、金沢藩域は金沢県(第1次)、大聖寺藩域は大聖寺県となった。同年11月20日に両県を廃止し、旧・金沢県より射水郡以外の越中国新川郡婦負郡礪波郡を分けて新川県(当時は新川郡魚津が県庁所在地)を設置、能登国と越中国射水郡七尾県を、加賀地方に金沢県(第2次)を置いた。明けて1872年(明治5年)2月2日、金沢県庁を石川郡美川町(現:白山市美川南町)に移し、この郡名より石川県と改称した[59]。現在の県名はこれに由来する。なお、石川は古くから氾濫を繰り返し、石ころ河原だった手取川の別名という説がある。県庁の移設は、旧加賀藩の影響力を弱めるための時の政府の方策等諸説あるが、公式には金沢では県域の北に寄りすぎであるためという理由であった。なお、金沢市も市制施行前は石川郡に属していた。同年9月25日に射水郡を除く七尾県を石川県に併合(射水郡は新川県に併合)、11月に足羽県より白山麓18か村を併合し、現在の石川県と同じ県域となった。これにより、先の県庁移転の根拠が消滅し、翌1873年(明治6年)に再び県庁は金沢に移転したが、県名はその後も石川県のままとされた。その後、1876年(明治9年)、当時の新川県(現在の富山県域にほぼ相当)と敦賀県(現在の福井県域にほぼ相当)の嶺北地域を編入し、富山と福井に支庁を置いた(現在の石川県と区別する意味で「大石川県」と呼ぶことがある)。

しかし、1878年(明治11年)に紀尾井坂の変が発生したのを切っ掛けに、大石川県は政府から「大県および不平士族の多い故の難治県」と警戒されるようになり、政府は大石川県の力を弱めるためおよび政府が軍備補完のために設立した「共同運輸会社」に伏木港の海運業者・藤井能三が有力出資者であることに考慮し、大石川県の分県を承認[60]1881年(明治14年)に福井県が、1883年(明治16年)に富山県がそれぞれ分離して現在の県域となる。特に富山県については、加賀側と能登側が「越中は藩政期に加賀藩の庇護を受け、さんざん迷惑をかけやっかいになり続けたのに今更分県などけしからん」と強く反発し阻止に暗躍していたが、最終的に越中側の熱意と政府による金沢市族への弾圧や自由民権運動の北陸ブロック形成の阻止という意図により独立する結果となった[61][62]

明治維新により武士は無職となり明治時代初期には士族の9割は金沢市外県外などに転出していった。そもそも武士の大半は貧乏であったため同時に農工商を営んでおり、士族業が失業しても影響が少なく、中には残った者もいたが、いわゆる上級武士ほど影響が大きかった。1874年(明治7年)、没落した士族を救うために旧・金沢藩士長谷川準也(後の金沢市長)らにより金沢製糸場が創設された。官営模範工場富岡製糸場に倣ったもので、県下の殖産興業の先駆けとなった[63]1887年(明治20年)4月、金沢に旧制第四高等中学校(現在の金沢大学の前身)が設置された[64][65]。また1898年(明治31年)10月、金沢城内に旧陸軍第九師団司令部が設けられた[11]。それまで人口減少などにより経済的に落ち込んでいたが、これにより金沢は北陸地域での学問的、軍事的な拠点として発展していく。明治期の金沢駅舎および駅前広場(金沢市)

鉄道は、1897年(明治30年)9月、北陸線福井駅から小松駅まで延伸。翌1898年(明治31年)4月に金沢駅まで、同年11月に高岡駅まで延伸された。また同年4月には七尾鉄道が津幡仮停車場(現:本津幡駅付近)から矢田新駅(後の七尾港駅)まで開通し、1907年(明治40年)国有化された。1925年(大正14年)和倉駅まで延伸し、1935年(昭和10年)までに輪島駅まで開業した。

金沢製糸場の施工にあたった津田吉之助の子津田米次郎は織機の機械化に取り組み、1900年(明治33年)日本初の力織機を発明した。当時、羽二重生産で出遅れていた金沢はこの力織機による工場制大量生産で大正期にかけて生産量を伸ばした[66]。同年、金沢では電気の送電が開始され、翌1901年(明治34年)に市内電話が開通。1908年(明治41年)にはガスの供給が始まっている[67]

1918年(大正7年)富山県魚津町で発生した米騒動は石川県でも高浜町堀松村(いずれも現:志賀町)から金沢市、宇出津町(現:能登町)、松任町(現:白山市)、穴水町へと波及した[68]


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