石川県
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また1898年(明治31年)10月、金沢城内に旧陸軍第九師団司令部が設けられた[11]。それまで人口減少などにより経済的に落ち込んでいたが、これにより金沢は北陸地域での学問的、軍事的な拠点として発展していく。明治期の金沢駅舎および駅前広場(金沢市)

鉄道は、1897年(明治30年)9月、北陸線福井駅から小松駅まで延伸。翌1898年(明治31年)4月に金沢駅まで、同年11月に高岡駅まで延伸された。また同年4月には七尾鉄道が津幡仮停車場(現:本津幡駅付近)から矢田新駅(後の七尾港駅)まで開通し、1907年(明治40年)国有化された。1925年(大正14年)和倉駅まで延伸し、1935年(昭和10年)までに輪島駅まで開業した。

金沢製糸場の施工にあたった津田吉之助の子津田米次郎は織機の機械化に取り組み、1900年(明治33年)日本初の力織機を発明した。当時、羽二重生産で出遅れていた金沢はこの力織機による工場制大量生産で大正期にかけて生産量を伸ばした[66]。同年、金沢では電気の送電が開始され、翌1901年(明治34年)に市内電話が開通。1908年(明治41年)にはガスの供給が始まっている[67]

1918年(大正7年)富山県魚津町で発生した米騒動は石川県でも高浜町堀松村(いずれも現:志賀町)から金沢市、宇出津町(現:能登町)、松任町(現:白山市)、穴水町へと波及した[68]。翌1919年(大正8年)に金沢で市内電車が運転を始める[67] とこれを契機に都市化が進み、カフェ・映画などの大衆文化が広がった。1925年(大正14年)内灘村(現:内灘町)に開園した粟崎遊園にも人気が集まった[69]。金沢では1930年(昭和5年)に犀川を水源とする末浄水場が完成して水道が通水し[70]、同年ラジオ放送が始まった[71]

1896年(明治29年)および1934年(昭和9年)には手取川で大洪水があり、多数の死者が発生した[53]。特に1934年(昭和9年)の災害は上流で大規模な土砂崩れ(別当崩れ)が発生するなど上流から河口まで流域の全域にわたって被害が発生し、死者97人、行方不明者15人に上る未曾有の大災害であった[72]
現代自衛隊と民間航空の共用空港である通称「小松空港」(小松飛行場小松市

石川県は戦争中空襲などによって焦土となることを免れたため(全国で唯一、太平洋戦争での空襲が無かった県である[15])、戦後も様々な社会資本を引き続き使用することができた。1947年(昭和22年)の第2回国民体育大会が石川県を中心として開催されたのは一つの例である。これは各都道府県持ち回りとなる最初の大会となった[73]

戦後、アメリカ軍が内灘村(現:内灘町)で接収した砲弾試射場に対する反対運動(内灘闘争)が起こり、1952年(昭和27年)から翌年にかけて激しさを増した[73]。その後1957年(昭和32年)に撤収されたため事態は次第に収束していった[74]旧海軍小松飛行場は戦後アメリカ軍に接収されていたが、1955年(昭和30年)に不定期の大阪便が就航した。1958年(昭和33年)にアメリカ軍の接収が解除されると航空自衛隊が駐屯。1961年(昭和36年)に航空自衛隊小松基地が開庁し、正式に自衛隊と民間航空との共用飛行場となった[75][76]

1957年(昭和32年)NHK がテレビ放送を開始[71]。翌年、民間放送北陸放送もテレビ放送を始めた[77]1962年(昭和37年)からはテレビカラー放送が始まった[71]。同年12月末から翌1963年(昭和38年)2月初めにかけて北陸地方を中心に広い範囲で降雪が続いた。最深積雪は金沢で181cmを記録。交通障害、通信障害、停電のほか家屋の倒壊も相次いだ(三八豪雪[78]

1963年(昭和38年)北陸本線福井駅・金沢駅間が電化[79]。翌年金沢駅・富山駅間も電化される[80]国鉄能登線1959年(昭和34年)に穴水駅から鵜川駅まで開業し、1964年(昭和39年)までに蛸島駅まで全線開通した[79]。一方、1967年(昭和42年)金沢の市内電車が廃止された[81]

1970年(昭和45年)10月31日、石川県内の人口が100万人を上回った[82]

1972年(昭和47年)県内初の高速道路となる北陸自動車道金沢西IC小松IC間が開通[83]。その後1978年(昭和53年)までに県内の北陸自動車道は全線が開通した[84]。能登方面は、1973年(昭和48年)能登海浜道路高松IC柳田IC間が開通し[85]1982年(昭和57年)までに粟崎IC此木IC(現:穴水IC)間の能登有料道路全線が開通している[86]。なお1977年(昭和52年)に尾口村(現:白山市)と岐阜県白川村を結ぶ白山スーパー林道(現:白山白川郷ホワイトロード)が開通した[84]

1980年(昭和55年)には治水、都市用水の供給、発電を目的とした手取川ダムが完成。水道用水として北は七尾市能登島から南は加賀市まで県内給水人口の7割以上を賄う[87]。また1993年(平成5年)志賀町で 志賀原子力発電所北陸電力)が営業運転を開始した[88]。一方で2003年(平成15年)には珠洲市で建設計画のあった珠洲原子力発電所(北陸電力・中部電力関西電力)の計画凍結が発表された[89]白米千枚田(輪島市)。能登の里山里海は世界農業遺産に認定された。

昭和末期以降、能登地方の交通体系は鉄道中心から道路・空港に大きく変わった。1988年(昭和63年)JR能登線が廃止され、第三セクター鉄道のと鉄道に引き継がれた(のと鉄道能登線[90]


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