1955年9月、北陸方面の講演旅行から帰京後、頭痛や胸苦しさを訴えて次男の勤務する東京大学医学部附属病院に入院、3日目となる9月25日に急性黄色肝臓萎縮症により死去[9]。入院から短期間での死去で、遺言も残さなかったという[9]。
没後その業績を偲び、日本都市計画学会に「石川賞」が設けられた[10]。また、生前の資料を財団法人都市計画協会が譲り受け、遺族からの寄付基金をもとに、「石川文庫」が設けられている[11]。 妻の清子は山川二葉と梶原平馬の長男・景清の長女。子に二男四女(允、中、恭子、倫子、圭子、玲子)[12] この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
家族
人物
出典検索?: "石川栄耀"
高山英華は石川を「地域の人達と一緒になってまちづくりをする人で法令条文重視でなく生活優先の人」「さかり場の好きなロマンチスト」と評し、徳川義親は「世話好きのまちのおじさん」と書き残している。のちに都市文化活動として自身が関わる目白文化協会の活動を開始。学生時代、自宅の自分の部屋を「阿伎山房」と名づけていたほか、後には徳川夢声を会長にゆうもあ・くらぶを結成している。一方で自宅のある目白在住の文化人らをあつめ、徳川義親を会長に目白文化協会を設立した。協会では毎月「文化寄席」という名の寄席を主催した。
若い頃から油絵やギター演奏、スポーツなど多趣味であったが、成功したのは落語だけと息子から言われている。落語のほうは、末広亭の演芸が終わった後、柳家小さんや馬琴がわざわざ目白の自宅までやってきて、今日の寄席の感想を求められたという。
青年時代、一時竹久夢二や北原白秋の詩を愛していた石川は情緒的な可憐な詩を作ってもおり、また時々俳句なども作るが、俳句よりそうした詩の方がはるかに上手かったという。墓地には自作の詩をきざんだ石が埋められた。
その他の業績
照明学会照明知識普及委員会委員
新宿西口広場事業および照明計画
名古屋市都市計画、中川運河、河馬の像(名古屋市東山動物園)[3]、土地区画整理事業ほか、名古屋駅駅前広場計画、豊橋市、岡崎市、一宮市、瀬戸市都市計画担当
那覇市都市計画の考察報告[13]
北九州五市合併構想
岡山県倉敷市広域計画
東京都内全域にわたる細街路街路網都市計画決定
東京緑地計画における保健道路の設定
紀元2600年記念宮城外延整備事業と地下道計画
湯立坂(東京都文京区)[3]
早大通り(東京都新宿区)[3]
東京都臨時露店対策本部・本部長[14](東京の闇市整理) - これにより、渋谷地下街(しぶちか)・上野西郷会館・三原橋地下街他が誕生した[3]
池袋駅東口地下街(東京都豊島区)[3]
中野北口美観商店街アーケード[3]
首都圏整備法制定・首都圏整備計画/首都圏整備委員会
著書
『都市動態の研究 愛知県五市を資料として』郷土教育聯盟〈郷土科学パンフレット 第三輯〉、1932年6月。NDLJP:1118671。
『都市計画要項』三重高農農業土木学会〈三重高農農業土木学会刊行叢書 第1〉、1935年3月。NDLJP:1146675。
『鮮満都市風景』都市研究会、1936年11月。
『防空日本の構成』天元社、1941年4月。
『日本国土計画論』八元社、1941年5月。NDLJP:1058773。