石川啄木
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旧制盛岡中学校中退後、『明星』に寄稿する浪漫主義詩人として頭角を現し、満19歳で最初の詩集を刊行した[1]。しかし、経済的事情から代用教員新聞記者として勤める傍ら小説家を志すも失敗、東京で新聞の校正係になってから1910年に刊行した初の歌集『一握の砂』は三行分かち書き形式で生活に即した新しい歌風を取り入れ、歌人として名声を得た[1]。また、同年に起きた幸徳事件(大逆事件)を契機として、社会主義への関心を深め、文学評論も執筆したが、結核により満26歳で没した[1]
生涯
出生から盛岡中学校時代まで

岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市日戸)に、曹洞宗日照山常光寺住職の父・石川一禎(いってい)と母・カツの長男として生まれる[2]。出生当時、父の一禎が僧侶という身分上、戸籍上の婚姻をしなかったため、母の私生児として届けられ、母の姓による工藤一(くどうはじめ)が本名だった[3]。戸籍によると1886年(明治19年)2月20日の誕生だが、啄木が詩稿ノート『黄草集』に「明治十九年二月二十日生(十八年旧九月二十日)」と記した括弧書きを天保暦の日付とみてこれを太陽暦に換算した1885年(明治18年)10月27日に生まれたとする見解もある[4]

二人の姉(サタとトラ)と妹(ミツ、通称光子)がいた[5]

1887年(明治20年)春、1歳の時に、父が渋民村(現在の盛岡市渋民)にある宝徳寺住職に転任したのに伴って一家で渋民村へ移住する[4][注釈 1]。この移住は、住職が急逝して不在となったのを知った一禎が、交通などの便のよい宝徳寺を希望して檀家や仏門の師である葛原対月(妻・カツの兄)に働きかけ(対月を通して本寺の報恩寺住職にも)、実現したものだった[4]

幼少期の啄木は体が非常に弱く、一禎の残した和歌の稿本に「息の二、三歳のころ病弱にて月一回は必らず(原文ママ)薬用せしめ侍るに」と記されている[3]。一方、一家でただ一人の男児として母は啄木を溺愛し、父も啄木用の家財道具に「石川一所有」と記入するほどで、こうした環境が「自負心の強い性格を作りあげた」と岩城之徳は指摘している[6]

1891年(明治24年)、学齢より1歳早く渋民尋常小学校(現・盛岡市立渋民小学校)に入学する[6]。その事情について、啄木の小説『二筋の血』で「主人公が遊び仲間の年上の子供が進学して寂しかったために父にねだって校長に頼むと許可された」とある内容が、啄木自身の事実とみて差し支えないと岩城之徳は記している[6]。前記の通り当時の啄木は母の戸籍だったが、進学するとそれでは都合が悪いという理由で、小学2年生だった1892年(明治25年)9月に一禎はカツと正式に夫婦となり、それに伴って啄木も石川姓(戸籍上は養子の扱い)となる[3]。学齢より1歳下にもかかわらず、1895年(明治28年)の卒業(当時尋常小学校は4年制だった)時には首席の成績だったと伝えられる[7]。尋常小学校を卒業すると、盛岡市の盛岡高等小学校(現・盛岡市立下橋中学校)に入学し、市内の母方の伯父の元に寄寓する[7][8]。盛岡高小で3年生まで学ぶとともに(ただし2年生への進級前後(早春)に寄宿先を同じ盛岡市内の従姉(母の姉の娘)宅に変えている[9])、3年生時には旧制中学校受験のための学習塾にも通った[10]

1898年(明治31年)4月、岩手県盛岡尋常中学校(啄木が4年生時の1901年4月に岩手県立盛岡中学校と改名[11]、現・岩手県立盛岡第一高等学校)に入学する[10]。入学試験の成績は合格128人中10番だった[10]

中学3年生の頃は、周囲の海軍志望熱に同調して、先輩の及川古志郎(後に海軍大臣など)に兄事していた[12]。3年生の1900年(明治33年)4月に創刊された『明星』は、浪漫主義の詩歌作品で全国に多くの追従者を生み[13]、盛岡中学では先輩の金田一京助が「花明」の筆名で新詩社(『明星』の発行元)の同人となり、『明星』にも短歌が掲載された[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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