石川啄木
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^ 啄木自身は中退後の1907年に『盛岡中学校校友会雑誌』に寄稿した「林中書」において、試験の不正や無断欠席、授業中の無関係の読書などを綴り、教員への不敬行為を理由に譴責処分を受けた際にはその通告書を教室に戻って見せびらかしたと記している。
^ 啄木は1904年1月に、野口本人に『東海より』が病臥中の自分を慰撫したことなどを綴った書簡を送っている[39]
^ 尾崎への献辞は、上京後の啄木が面識のない尾崎を訪ねて出版依頼をした(拒絶された)経緯による[48]。この献辞のために、一時は尾崎が出版社を紹介したという誤伝が流れた[48]
^ 岩城は人物叢書『石川啄木』(初版は1961年)では、家計を背負うことになった責任に苦慮したことが理由と推測していた[49]
^ 帷子小路の家は現存し「啄木新婚の家」として保存されている(画像参照)[53]
^ 1年後に「資金流用」の廉で啄木が警察の取り調べを受け、啄木の嘆願を受けた呉服商の計らいもあり放免となる後日談があった[56]。啄木は実際に出版資金を生活費などに使っていたとされる[56]
^ この帰郷について岩城之徳は、2月28日の曹洞宗宗憲制定発布を知り、父の住職復帰を期してのものだったとしている[60]
^ この際新詩社に寄り、そこで夏目漱石島崎藤村の小説を目にした[59]。啄木が小説を書き始めるのはその後である[59]
^ 長浜功は大島野百合とする[66]
^ のちに啄木が編集した第6号と第7号は、題字は同じながら「れっどくろばあ」という読み方に変えている[67]
^ 社内にはあくまで「家族の事情で函館に行く」とのみ伝え、正式な退社は4月25日(前日付紙面に社告掲載)で、後任は小国露堂だった[89]
^ 掲載期間の新聞発行は60回あるが、12月1日付が休載のため、この回数である[99]
^ 1910年1月の第2年1号より交代[103]
^ 「ローマ字日記」は、死後70年近く経つ1978年昭和53年)に刊行された『石川啄木全集』第6巻(筑摩書房)で初めて伏せ字なく全文が翻字された[105]。それまで伏せ字が施されていたのは、露骨な性描写が含まれていたためである[106]。一つ前の全集である『啄木全集』第6巻(筑摩書房、1967年)の「解説」では、当時版権所有者だった石川正雄(長女京子の夫)が「ほんの一部分だけはどうしても公表を避けたい」と主張し、それに従わざるを得なかったと記されている[107]
^ 4月13日「老いたる母から悲しき手紙がきた」、「今日は社を休むことにした」、「貸本屋が来たけれど、六銭の金がなかった。そして。『空中戦争』という本を借りて読んだ」と日記にあり、次にその書物からイメージを喚起した詩らしき記述がある。『空中戦争』はH・G・ウェルズの作品『The War in the Air』を翻案したもので、1909年3月に出版されている。
^ 「喜之床」の建物は、道路拡張のため1977年昭和52年)に取り壊されて明治村に移築の上、復元保存されている[111][112]
^ 1908年の上京直前、4日間だけ函館で家族と同居生活をしているものの[113]、恒久的な同居は小樽から釧路に発って以来だった。
^ 1908年の年末、手元の金が5しかない窮状を啄木に年賀状で伝えたが、それを読んだ啄木は日記に「予が金をおくらなかった事に対するうらみが読まれる。予はきまづくなった。」と記すのみであった[114]
^ 啄木は、東京朝日新聞編集局長の安藤正純から哀果の寄贈した『NAKIWARAI』(安藤は哀果と縁戚関係にあった)を「批評してくれまいか」と渡され、1910年8月3日付の紙面に「大木頭」の筆名で好意的に紹介した[130]。哀果はやがて筆者が啄木だと知り、さらに歌壇時評「歌のいろいろ」でも哀果の雑誌寄稿作を「好(い)い歌」と賞賛され、啄木に関心を寄せることになる[131]
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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