石川啄木
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中学を中退した啄木は1902年10月30日に好摩駅を出発して(盛岡に立ち寄って1泊してから)、上京した[31][32]

11月9日、新詩社の集まりに参加、10日には与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪ねる(晶子は9日前に長男を出産したばかりだった)[31]。一方先輩の野村長一からの忠告で東京の中学校への編入を試みたが欠員がなく、正則英語学校高等科への入学を目指したものの、学資が不足して断念する[33]。滞在は続き作歌の傍らヘンリック・イプセンの戯曲『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』の翻訳で収入を得ようとしたが果たせなかった[32]。友人からの伝手で『文芸界』(金港堂)の主筆佐々醒雪への紹介をもらうも、醒雪は面会もせずに断った[33]。11月下旬には高熱を発して寝込み、約一週間は日記の記述がメモ程度となる[34]。さらに金銭面でも窮した啄木は1903年(明治36年)2月、父に手紙で苦境を伝え、それに応じた父に迎えられて故郷に帰る[34][35]。帰郷後はしばらく療養生活を送った[36]。5月から6月にかけ岩手日報に評論「ワグネルの思想」(リヒャルト・ワーグナーを論じた内容)を連載した[35]。7月には『明星』に再び短歌が掲載され、誌面の扱いが「投稿者」から同人の待遇となる[37]。11月に『明星』に短歌が掲載された際に、社告で正式に新詩社同人となったことが告知された[37]。誌面での扱いが変わっただけではなく鉄幹や平出修から評価を受けるなど、歌人として期待が寄せられた[37]。このころ、アメリカ合衆国の詩集『Surf and Wave』の詩を「EBB AND FLOW」と題したノートに筆写するとともに、その影響を受けて詩作を始める[35][38]。このほか、堀合節子から贈られた野口米次郎の訳詩集『東海より』も啄木の詩作に影響を与えたとされる(岩城之徳は『Surf and Wave』も節子に贈られたと推定している)[39][注釈 5]

この時期から、友人宛の書簡に「啄木庵」という号を使用するようになり[40]、12月には「啄木」名で『明星』に長詩「愁調」を掲載して注目された[41]

1904年(明治37年)1月8日、盛岡にて恋愛が続いていた堀合節子と将来の話をする[35]。当時、二人の結婚については両者の親(節子の父、啄木の母)から強い反対があったが、6日後の1月14日に婚約が確定したという長姉(田村サダ)からの手紙を受け取ったと日記に記され、2月3日には結納が交わされたとみられる[42]

9月から10月にかけて青森小樽を旅行、小樽の義兄宅に宿泊した[43]。この旅行は小樽にいた次姉夫妻から上京費用を得ることが目的で、姉が病気のため望む金額はかなわなかったものの、義兄の好意でいくばくかの金を得た[44]

10月31日、詩集出版を目的として再び東京に出る[43]。啄木上京中の12月26日に、一禎は宗費を滞納したという理由で宝徳寺住職を曹洞宗宗務局から罷免される[45]

1905年(明治38年)1月5日、新詩社の新年会に参加[46]。故郷では、一禎を住職に復帰させるかどうかで檀家の間で意見が分かれ、それに耐えかねた一禎は3月に家族とともに宝徳寺を出た(4月に盛岡に転居)[45][47]

5月3日、第一詩集『あこがれ』を小田島書房より出版する[48]。高等小学校時代の同窓生・小田島真平の長兄が勤めていた大学館が実際の版元で、啄木の携えた真平の紹介状を受けた長兄が、銀行勤務の次兄の出資を仰ぎ「小田島書房」の名義で刊行したものである[48]上田敏による序詩と与謝野鉄幹の跋文が寄せられたほか、尾崎行雄(当時東京市長)への献辞が記された[48][注釈 6]


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