石川啄木
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また、同年に起きた幸徳事件(大逆事件)を契機として、社会主義への関心を深め、文学評論も執筆したが、結核により満26歳で没した[1]
生涯
出生から盛岡中学校時代まで

岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市日戸)に、曹洞宗日照山常光寺住職の父・石川一禎(いってい)と母・カツの長男として生まれる[2]。出生当時、父の一禎が僧侶という身分上、戸籍上の婚姻をしなかったため、母の私生児として届けられ、母の姓による工藤一(くどうはじめ)が本名だった[3]。戸籍によると1886年(明治19年)2月20日の誕生だが、啄木が詩稿ノート『黄草集』に「明治十九年二月二十日生(十八年旧九月二十日)」と記した括弧書きを天保暦の日付とみてこれを太陽暦に換算した1885年(明治18年)10月27日に生まれたとする見解もある[4]

二人の姉(サタとトラ)と妹(ミツ、通称光子)がいた[5]

1887年(明治20年)春、1歳の時に、父が渋民村(現在の盛岡市渋民)にある宝徳寺住職に転任したのに伴って一家で渋民村へ移住する[4][注釈 1]。この移住は、住職が急逝して不在となったのを知った一禎が、交通などの便のよい宝徳寺を希望して檀家や仏門の師である葛原対月(妻・カツの兄)に働きかけ(対月を通して本寺の報恩寺住職にも)、実現したものだった[4]

幼少期の啄木は体が非常に弱く、一禎の残した和歌の稿本に「息の二、三歳のころ病弱にて月一回は必らず(原文ママ)薬用せしめ侍るに」と記されている[3]。一方、一家でただ一人の男児として母は啄木を溺愛し、父も啄木用の家財道具に「石川一所有」と記入するほどで、こうした環境が「自負心の強い性格を作りあげた」と岩城之徳は指摘している[6]

1891年(明治24年)、学齢より1歳早く渋民尋常小学校(現・盛岡市立渋民小学校)に入学する[6]。その事情について、啄木の小説『二筋の血』で「主人公が遊び仲間の年上の子供が進学して寂しかったために父にねだって校長に頼むと許可された」とある内容が、啄木自身の事実とみて差し支えないと岩城之徳は記している[6]。前記の通り当時の啄木は母の戸籍だったが、進学するとそれでは都合が悪いという理由で、小学2年生だった1892年(明治25年)9月に一禎はカツと正式に夫婦となり、それに伴って啄木も石川姓(戸籍上は養子の扱い)となる[3]。学齢より1歳下にもかかわらず、1895年(明治28年)の卒業(当時尋常小学校は4年制だった)時には首席の成績だったと伝えられる[7]。尋常小学校を卒業すると、盛岡市の盛岡高等小学校(現・盛岡市立下橋中学校)に入学し、市内の母方の伯父の元に寄寓する[7][8]。盛岡高小で3年生まで学ぶとともに(ただし2年生への進級前後(早春)に寄宿先を同じ盛岡市内の従姉(母の姉の娘)宅に変えている[9])、3年生時には旧制中学校受験のための学習塾にも通った[10]

1898年(明治31年)4月、岩手県盛岡尋常中学校(啄木が4年生時の1901年4月に岩手県立盛岡中学校と改名[11]、現・岩手県立盛岡第一高等学校)に入学する[10]。入学試験の成績は合格128人中10番だった[10]

中学3年生の頃は、周囲の海軍志望熱に同調して、先輩の及川古志郎(後に海軍大臣など)に兄事していた[12]。3年生の1900年(明治33年)4月に創刊された『明星』は、浪漫主義の詩歌作品で全国に多くの追従者を生み[13]、盛岡中学では先輩の金田一京助が「花明」の筆名で新詩社(『明星』の発行元)の同人となり、『明星』にも短歌が掲載された[14]。そうした状況で、やはり文学好きな及川に感化を受けて関心が芽生え、啄木の短歌志望を知った及川は「歌をやるなら」と金田一を紹介する[12][注釈 2]。啄木は金田一から『明星』の全号を借りて読み、3年生の三学期だった1901年(明治34年)3月頃に新詩社社友になったと推測されている[12]。また、のちに妻となる堀合節子とは、1899年(明治32年)に知り合い[16]、3年生の頃には交際を持っていたとされている[17]。一方、3年生末期の1901年3月に、教員間の紛争(地元出身者が他地域から赴任した教員を冷遇した)に対する生徒側の不満から起きたストライキ(3年生と4年生)に参加した[18]。ストライキの結果、直後の異動で教員の顔ぶれは一変した[19]。啄木はストライキの首謀者ではなかったとされるが、その後異動した教員を惜しむ雰囲気が出たことや、本来の首謀者が卒業や退学で学校を去ったため、啄木がその責任者の一人に擬せられ、後述する退学時に不利に働くことになった[20]

4年生の1901年には校内で文芸活動を活発化させ、翌年にかけて『三日月』『爾伎多麻(にぎたま)』『高調』といった回覧雑誌を主宰・編集した[21]。短歌の会「白羊会」を結成したのもこの年である(メンバーに先輩の野村長一(後の野村胡堂[注釈 3])や後輩の岡山儀七がいた)[23]。12月3日から翌1902年(明治35年)1月1日にかけて、下級生のメンバー3人とともに「白羊会詠草」として岩手日報に7回にわたって短歌を発表し、啄木の作品も「翠江」の筆名で掲載される[24]。これが初めて活字となった啄木の短歌だった[23]。さらに岩手毎日新聞にも1901年12月に短歌10首を発表したほか、1902年1月には「麦羊子」の筆名で蒲原有明の最初の詩集『草わかば』を評した文芸時評を岩手日報に発表した[23]。こちらも初めて活字になった評論で、そのあとも3月と5 - 6月に「白蘋(はくひん)生」の筆名で文芸時評の連載を寄稿した[23]

この時期の啄木は『明星』に掲載された与謝野晶子の短歌に傾倒し、自作の短歌も晶子を模倣した作風だった[13]

5年生(最終学年)の1902年(明治35年)、一学期の期末試験で不正行為(特待生の同級生に、代数の試験で答案を2枚作ってもらい、その1枚を同級生が途中退出する際に入手しようとしたとされる)を働いたとして、答案無効・保証人召喚という処分が下された[25]。啄木は同年3月の4年生学年末試験でも不正を働いたとして4月に譴責処分を受けていた[26]


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