前述以外にも、その生涯についてはさまざまな説がある。
幼名は五郎吉。幼い頃から非行を繰り返し、14歳か15歳の頃に父母を亡くす。19歳の頃からについては幾つかの説があり、主に「伊賀に渡り、忍者の弟子になった後、京を出て盗賊になった」や「奉公した男性の妻と駆け落ちした」などがある。
百地三太夫(百地丹波)について伊賀流忍術を学んだが、三太夫の妻と密通した上に妾を殺害して逃亡したとの伝承が知られている。
その後手下や仲間を集めて、頭となり悪事を繰り返す。相手は権力者のみの義賊だったため、当時は豊臣政権が嫌われていた事もあり、庶民の英雄的存在になっていた。
金の鯱(名古屋城・大坂城など諸説あり)を盗もうとしたとも伝わるが、これは別の盗賊団の混同かと思われる(柿木金助参照)。
京都市伏見区の藤森神社に石川五右衛門寄進という手水鉢の受け台石がある。前田玄以配下に追われた五右衛門が神社に逃げ込んだ際、神社が管轄が違うと引き渡しに直ぐに応じなかったため、まんまと逃げおおせた。そのお礼として宇治塔の島
江戸時代には伝説の大泥棒として認知され、数多くの創作作品が生まれた。
1776年(安永5年)以前成立の実録本『賊禁秘誠談』は石川五右衛門が大盗賊へ成長していく様子を武勇伝のように描き、五右衛門を小気味よい反逆者として描いた作品である[6]。この『賊禁秘誠談』の内容を典拠として、歌舞伎『楼門五三桐』が生み出された[7]。
歌舞伎『楼門五三桐』で、五右衛門を明国高官宋蘇卿(実在の貿易家宋素卿のもじり)の遺児とする設定は、謡曲「唐船」を参考にしたものである[8]。また、「南禅寺山門の場」(通称:『山門』)は有名で、煙管片手に「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両……」と科白を廻し、辞世の歌といわれている「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」を真柴久吉(豊臣秀吉がモデル)と掛け科白で廻した後、山門の上下で「天地の見得
」を切る。この場面の金襴褞袍(きんらんどてら)に大百日鬘(だいひゃくにちかつら)という五右衛門の出で立ちは広く普及し、今日では一般的な五右衛門像となっている。ただし、実際の南禅寺三門は文安4年(1447年)に焼失、再建は五右衛門の死後30年以上経った寛永5年(1628年)であるため、五右衛門の存命中には存在していない。戒名は「融仙院良岳寿感禅定門」。これは処刑された盗賊としては破格の極めて立派な戒名である。
一方で彼の実際の行動について記録されている史料は少ない。反面、そのことが創作の作者たちの想像力と創作意欲をかき立てていることは間違いなく、彼に関しては古今数多くのフィクションが生み出されている。
石川五右衛門が登場する作品
古典
浄瑠璃・人形浄瑠璃
石川五右衛門
傾城吉岡染(近松門左衛門作)
釜淵双級巴
木下蔭狭間合戦
歌舞伎
楼門五三桐(金門五山桐、1778年初演、演:初代嵐雛助)
高麗大和皇白浪(1809年初演、演:五代目松本幸四郎)
楼門詠千本(1838年初演、演:四代目中村歌右衛門)
他に書替え狂言多数
文学
『本朝二十不孝』(井原西鶴著)巻二の一
実録本『賊禁秘誠談』
落語
『お血脈』
『釜泥』
『骨つり』
『強情灸』
現代
小説
石川五右衛門(村上浪六)
石川五右衛門(塚原渋柿園 隆文館 1908)
石川五右衛門の生立(上司小剣)
真説石川五右衛門(檀一雄、1951)第24回直木賞受賞
石川五右衛門(白井喬二)