石川ひとみ
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当時から目の瞳が大きくて愛らしく、男子生徒らから人気が高かった[3]

名古屋短期大学付属高等学校に入学[2]。街中の広告で東京音楽学院名古屋校を知り、合格して高校1年生の1975年11月から通い始める[2]。しかしその後、十二指腸潰瘍で入院したり、月謝の値上げもあって両親から「お茶とかお花とか将来役立つことをしなさい」と言われるなどあり、だんだん行かなくなって、本人曰く「しぶしぶ」という形で半年ほどで辞めることになる[3][6]。その後は、多くの生徒と同じくエスカレーター式に付属の短大に進むつもりだったという[4]

しかし、高校2年生の11月頃に渡辺プロダクションの新人歌手オーディションを勧められ、軽い気持ちで受けたところ合格[3]。そして名古屋に来たディレクターに勧められて出場した[3]フジテレビ系オーディション番組『君こそスターだ![注釈 2]でチャンピオンとなる。番組のオーディション1週目で岩崎宏美の「ドリーム」を歌うが、歌詞を間違えて「ごめんなさい」と叫び収録が中断された[3]。しかし「歌詞を間違えた出場者は君が初めてだよ」と逆に審査員に好感を持たれ[2][3]、その後『君こそスターだ!』では7週勝ち抜いてチャンピオンになった[6]

この結果を受けた渡辺プロから「まだ歌手になれるかは分からないけどうちの新人班に所属してはどうか」と打診された[4]。上京になるため両親から反対されたが、「大学進学したと思って4年間だけ東京で頑張らせてほしい」と説得[4]。親の許可を得て渡辺プロに所属して活動することになり[6]、1978年3月、高校卒業の3日後に上京して渡辺プロの寮に入寮。同時期の入寮者に桑江知子松原みきがいる[6]。寮生活では、休日に上記の2人に加えて先輩デュオのザ・リリーズなどとよく立川市でボウリングを楽しんだ[4]
アイドルデビュー?ブレイク

1978年5月25日に、キャニオン・レコードNAVレコードから「右向け右」でアイドル歌手としてデビューすると、全国58大学で構成する全国ビューティ・オール学生協会から「'78マスコット・ガール」に選ばれるなど、デビュー当時から容姿と歌唱力が高く評価されて大学生を中心に大きく支持を得る。男性誌を中心に水着姿のグラビア撮影が多かったが、生後6日で体験した伊勢湾台風も影響して[7]水を恐れておりデビュー前は水着を1着も持っていなかった。

1979年から1982年までNHK人形劇プリンプリン物語』で声優として主役のプリンセス・プリンプリンの声を担当し[8]、同局の歌番組『レッツゴーヤング』では太川陽介と司会を務めた。

両親と約束した4年間の"タイムリミット"となった1981年、それまでヒット曲に恵まれず「中途半端なままで活動を続けたくない」という意志からこれを最後の曲として歌手をやめるつもりだった[8][6]11枚目のシングル「まちぶせ」が好評で販売枚数も多く、キャンペーンで全国を巡りながら「歌の楽しさを思い出して、辞めるのはやめようと思った」[8]。「まちぶせ」は長期間ヒットチャートの上位にあり、次のシングル曲として予定されていた「にわか雨」の発売見通しが立たず、にわか雨の時期を過ぎたこともあり発売を見送り、代わりに「まちぶせ」と同じく三木聖子のカバー曲である「三枚の写真」を発売した。「にわか雨」は2年後の1983年6月21日に16枚目のシングルとして発売した。

1981年に『NHK紅白歌合戦』に初出場する。
ブレイク以降B型肝炎発病まで

1982年2月にN.S.P.天野滋による「ひとりじめ」、5月に「君は輝いて天使にみえた」を発売し、ファンから評判が高かったものの販売枚数は多くなかった。1982年に、NHK総合あなたのメロディー』で、高校生の川越進が作詞作曲して石川が歌唱した「パープル ミステリー」が年間優秀曲に選ばれ、一部歌詞を改編して1983年2月にシングル「パープル ミステリー」として発売した。

1983年6月に「にわか雨」を発売。キャンペーンでミニFMステーションを模した「にわか放送局」を日本各地で開局し、その場で集めたリクエスト曲やアンケートを元に、DJを織り交ぜた新曲発表会やサイン会を催した。

1983年9月に「」を発売する。脱アイドルを模索し、テレビドラマに出演するほか、露出度が高いグラビア写真を雑誌『GORO』の衝撃館で発表した。その他、『写楽』や『プレイボーイ eyes』などでもセミヌードグラビアを公開し、1984年11月にヌード写真集「心変わり」を発売した。

1984年12月23日に立川WILLで行われたクリスマスライブで、「今まで、色々なことに挑戦してきたが、来年からは歌に全精力を傾けてゆく」と述べた。

1985年5月に「夢回帰線」を発売して、ナリス化粧品のコマーシャルソングに使用された。

1986年4月に「秘密の森」を発売、キャニオン・レコード / NAVレコードからのラストシングルとなった。

1987年(27歳)に初めてのミュージカル「はだかの王様」で主演するも、公演まで1週間を切ったリハーサル中にひどいめまいに襲われた[4]。病院で診察を受けるとめまいとは別に、B型肝炎を発症していることが偶然判明し、急遽入院することになった[注釈 3]。スタッフとして石川を支えていた山田直毅は、発病前と変わらずに接して精神的に支えた。
休業から活動再開後

退院後に渡辺プロダクションと契約が破棄されて芸能界を退いたが、1988年に活動再開する。本人の場合、母子感染でB型肝炎のキャリアになったが、この頃から本人にとって病気への誤解と偏見による辛い日々が続いた[4]。最も辛かったのは、病気公表後からしばらくは街なかで握手を拒まれたり、通っていた水泳教室で「同じプールで泳いだりすると病気がうつるから教室を辞めて下さい」と言われたことだという[4]

映画『男はつらいよ』の寅さんの大ファンで、友人の斉藤ゆう子と「柴又ツアー」と称して映画ロケ地の柴又界隈を廻った。1990年3月に、新聞の取材を受けるために訪れていたホテルのラウンジで、寅さん役の渥美清と遭遇する。色紙を持ち合わせず無地のレポート用紙にサインをもらい、現在も額縁に入れて大切に保存している[注 2]。この時、渥美からサイン入り写真との交換をリクエストされたため、偶然持っていた自身の写真をお返しとして渥美に渡した。

1993年(34歳)、ミュージシャンでデビュー以来バックバンドを務めていた、作・編曲家の山田直毅と結婚し、結婚式は挙げなかったがその代わりに夫婦でベルギー旅行に行った[4]


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